続・歴史学と歴史認識 |
昨日の続き。
「歴史認識」とは、そもそも極めて現在的な問題である。 厳密に言えば、「歴史認識」とは現在の価値観や感情などを特定の歴史に投影したものである。一般的な理解とは逆に、「歴史認識」とはむしろ歴史学の営みに常に先立って存在する。このことの意味は極めて深刻だ。 「歴史認識」と言われると、何となく「動かし難い」「重い」もののような印象を受けがちである。だから歴史学者達に少しずつ変えていってもらうしかないことのように錯覚してしまう。 しかし、実際にはその時々の社会状況が変われば、「歴史認識」もあっさりと変わっていく。周辺諸国と「歴史認識」で問題が起こるのも、それは今現在の日本とそれらの国との関係がギクシャクしているからで、関係が改善してしまえばどうでもいいことになってしまうに違いない。 そこのところを、謝罪一辺倒の悲観派の人達も、戦争責任自体を否定したがる強硬派の人達も勘違いしている。歴史にとらわれたり、書き換えたりする前に、とにかく仲良くなってしまえばいい。それだけのことなのだ。 ただし、本当の意味で「仲良く」なるためには、少なくとも自分に厳しくなければならない。 今回の北朝鮮のことでも、「昔日本がしたことを考えれば仕方ない」という声がちらほら出ている。 一見、相手の立場を思い遣っているようだが、実際には逆だ。 北朝鮮の所業を仕方ないと言うことで、昔の日本のしたことも「仕方ない」と言っているのである。その結果、どれだけの人達が犠牲になったことか。 自らに対しても、相手に対しても同じように厳しい態度で望めないなら、見せかけのなれ合いがいつまでも続くだけだ。 「新しい教科書をつくる会」が信用されないのも、同様の理由からだと思う。 そもそも教科書の冒頭から、自らの歴史を自らの責任において語ることを放棄しているのだから。 これこそ、歴史学を隠れ蓑に、「歴史認識」から目を背ける態度に他ならない。小泉首相の靖国参拝問題もそうだが、いたずらに問題解決を妨げているとしか見えない。 歴史学の進展はそれぞれの「歴史認識」をより鮮明に描く手助けになるし、そこに投影された人々の価値観や感情をよりはっきりと理解する上で役に立つ。しかしその先は今を生きる我々一人一人が道を切り開かねばならないことを、忘れてはいけない。 繰り返し言う。歴史学を隠れ蓑に、「歴史認識」から目を背けるだけでは何も変わらない。それだけは間違いない。 |
by hirokira1
| 2004-05-26 22:06
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