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突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
by hirokira1
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2005年 05月 03日
“100%オリジナル”という幻想
随分と御無沙汰してしまいました。
別に、前回みたいに海外放浪していたというわけでもないのですが、「何となくせわしない」という程度の状況といえど、塵も積もれば何とやら・・・なかなか馬鹿にできないものです。

列車事故の惨劇もあってかすっかり影が薄くなったホリエモンのニッポン放送株騒動ですが、どっちが勝った負けたにしか興味のないワイドショー的な野次馬はともかく、メディアのあり方やネットの将来に関心のある人々にとっては、いろいろと考えさせられる出来事だったと思います。
特にマスメディアとしての「公共性」という点では、今回の騒動の中でその理想と現実のギャップを露骨なまでに見せつけられることになりました。



結果だけを言えば、メディアもネットも何も変わってはいません。
彼の行動を支持していた人たちの大部分もわかってはいたでしょうが、ホリエモンは決して救世主ではなかったということです。

ただ、長い目で見れば、今回の経験を踏み台にして少しずつ状況を変化させていくことはできるのではないかとも思っています。
それはたぶん、誰かが何とかしてくれるのではなく、一人でも多くの人が今回の経験から浮き彫りになった問題意識を自分の問題として、自らに問いかけ続けることによって初めて可能になることなのでしょう。

取りあえず、内田センセのブログから次のエントリを挙げておきます。
「メディア・リテラシーについて」~2005年04月20日
(参照→http://blog.tatsuru.com/archives/000938.php

--------

さて、本題。

前回の内容を受けて、文化の発展における"オリジナル"の立ち位置を考えてみたいと思います。

言うまでもなく、文化の発展を支えているのは新しい文化的価値の"創造"という行為です。
そして"創造"とは、何らかの"オリジナル"なものを生み出すということです。
そして、何であれ"オリジナル"なものを生み出すことはそれ自体価値のあることであり、"オリジナル"なものを生み出した人はそこから得られる対価を独り占めする権利が認められる、というのが現代社会における通念となっています。

でも、"オリジナル"であることって、そんなに価値があることなのでしょうか?


例えば、料理などはどうでしょうか?
「オリジナル料理」と銘打ったメニューはあちこちのレストランで見ることができます。
料理番組でもしばしば料理家の「オリジナル料理」が紹介されますし、素人向けの「オリジナル料理コンテスト」も少なくないようです。

では、それらの「オリジナル料理」の"オリジナル"な価値はどこにあるのでしょう?
「食材」?
いえいえ。如何にオリジナル料理とはいえ、使う食材はほぼ間違いなく"別の誰か"が育てた(あるいは獲ってきた)ものを入手しただけです。
食材自体に、オリジナルな価値はまず認められないでしょう。
「調理法」?
そうかなぁ。普通は調理法がオリジナル料理の本質だと思われていますけれど、注意してみてみるとほとんどの場合は既に確立している調理法をちょっとアレンジしたとか、マイナーチェンジしてみたとか、そのくらいのものですよね。
例えば、オリジナル料理の作り方として、『豆腐百珍』を参考書に推薦しているこういうサイトがあったりしますが、
(参照→http://www.geocities.co.jp/Foodpia-Olive/1746/coramu/index.html
『豆腐百珍』って、確か『美味しんぼ』の山岡に「陳腐」とか何とかぼろくそにけなされていた本じゃありませんでしたっけ?
まあその山岡にしても、別に一からオリジナルな調理法を編み出すわけでもなく、大抵は意外なところからヒントをもらってきてその場を切り抜ける、というのが『美味しんぼ』の基本パターンなわけですけど。

そもそも「オリジナル料理」を数多く生み出せる調理師や料理研究家の方々は、そこに至るまでに数え切れないほどの"既存の"料理をつくり、そこで使われている"既存の"調理法を"真似し"続けてきたに違いないのです。
その意味では、本来私たちがイメージするような"オリジナル"とは対極にあるとすら言えます。

単に誰もつくったことのない"オリジナル"な料理をつくるだけなら、実に簡単なことだと私は思います。
だって、誰も使ったことのない食材を使って、誰からも習ったことのない調理法で料理すればいいんでしょ?
取りあえず裏山に行って、図鑑に載っているような"特定の"キノコを採ってきて、いかなる料理も学んだことのない私の強み(苦笑)を生かして"本能の赴くままに"調理すれば、どんな専門家よりも"オリジナル"な料理がきっとできるはずです(笑)。
もちろん味だって"オリジナル"に違いないはずです。
もっとも私は「味見をしない」主義なので断言はできませんが(笑)。
そして何よりの強みは、この料理の場合、オリジナルではないことを確認するために敢えて食してみようとする人が決して現れないであろうことです(爆)。


まあ、上のようなバカ話はともかく。
「オリジナル料理」の"オリジナル"性を支えているのは、ほとんどの場合食材と調理法の組み合わせの"意外性"に過ぎません。
逆に言えば、それ以外の構成要素は全て旧来から、他者から受け継いだものということです。
あるいは、エジソンが言ったとされる「99%の努力」とは、自らがかいた汗というよりはこのような意味での"先人の積み重ね"と解釈した方が有意義なのかも知れませんね。

ただし、「オリジナル料理」の場合、その価値を支えているのは決してその"オリジナル"性ではありません。
上述のバカ話でもわかるように、食べると死ぬかも知れない毒キノコ料理の"オリジナル"性には何の価値もあろうはずがないのです。
「オリジナル料理」に価値があるのは、その"意外性"にもかかわらず"うまい"という時だけです。
言い換えれば、その料理が"うまい"時に限り、その料理の"オリジナル"性が価値を持つのです。

 もっと"うまい"料理を食べたい。
 もっと"楽しい"ストーリーを見たい。
 もっと"感動的な"音楽を聴きたい。

このような要求に応えることをひとまず文化の発展と呼ぶならば、文化を発展させるためには、うまい料理をつくる人、楽しいストーリーを見せる人、感動的な音楽を奏でる人がもっとたくさん出てくるように、彼らの"創造"に見合う報酬を保障することが必要になるでしょう。
そのために「著作権」や「特許」という制度があり、彼らのオリジナル性が保護されているわけです。


ところが、現実にはこれら「著作権」や「特許」の制度が逆に文化の発展を阻害するケースが増えてきているような気がします。

例えば、『ふしぎの海のナディア』とディズニー映画の『アトランティス』の類似点を解説するこんなページとか。
(参照→http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/9219/atlantis.htm

ディズニー映画と言えば、以前に『ジャングル大帝』と『ライオンキング』というのもあったような気がしますが・・・。

あるいは、小林亜星の「どこまでも行こう」と服部克久の「記念樹」との間で争われた一連の裁判とか。
(参照→http://www.remus.dti.ne.jp/~astro/hanketsu/hanketsu.html


私個人の意見としては、これらのケースで指摘されているような「パクリ」があったのかなかったのか、どこまであったのかという点はあまり本質的な問題ではないように思います。
もちろん、後発の作品が先行する作品の影響を全く受けなかったというのは無理のある弁明だとは思うのですが。
ただし、私が実際に「どこまでも行こう」と「記念樹」を聞いて思ったのは、「どちらもいい曲」で、しかも互いに入れ替え可能な曲ではないということです。
特に「記念樹」は卒業式やお別れ会などで巣立ちの感慨を込めて流されたり歌われたりしたであろう曲ですが、いくらメロディーが酷似していても「どこまでも行こう」に差し替えるわけにはいかないでしょう。
このことは、既に小倉秀夫弁護士なども指摘しているところです。
(参照→http://benli.cocolog-nifty.com/benli/2005/02/post_1.html

「記念樹」については、服部氏敗訴確定後、使用差し止めなどを含む措置がなされたようですが、このことによって「記念樹」に対する感慨を否定され、聴く権利・歌う権利に制限をうけるリスナーはもとより、差し止めさせた小林氏側も含めて得をした人は(裁判で報酬を得た弁護士を除けば)誰もいないはずです。
むしろ「記念樹」の登場によって、それまでは過去の曲であった「どこまでも行こう」が再び脚光を浴びたことを考えれば、その使用差し止めは小林氏側にとってもマイナスでしかないでしょう。


一方、ディズニーの映画に関しては、全く正反対の構図が展開されています。
『ジャングル大帝』にせよ『ナディア』にせよ、その影響を否定するのは不自然で滑稽ですらあるにもかかわらず、ディズニー側は"100%オリジナル"というタテマエを頑として譲ろうとしません。
国柄や文化的背景のせいもあるのでしょうが、それだけではないような気がします。


「著作権」については、既にあちこちで議論されていますので特に繰り返すつもりもありませんが、昨今の「著作権」の主張が本来の目的である文化の発展を阻害する方向に作用しているのは間違いないように思われます。
つまり、自らの著作物に対する権利の厳格な保護を主張するあまり、その著作物が拠って立つところの先行する著作物の恩恵に対する評価を極小化してしまい、結果として"100%オリジナル"という幻想を生み出してしまったのではないかと思われてならないのです。

実際、"100%オリジナル"という幻想を盲信することによって、利益を生み出せる著作物を持つ著作権者は自らの利益を極大化することが可能になります。
否、正確には「自らの利益を極大化することが可能になる」気がするだけかも知れません。
「どこまでも行こう」の行く末を考えれば、やはり幻想は幻想に過ぎないのだと思わざるを得ません。

考えてみれば、『ナディア』にしてもそのエッセンスは「オマージュ」、より露骨に言えば「パロディ」の塊です。
しかしそのことは「パロディ」に使われた元作品の価値を損なうことにはなりません。
むしろそれをきっかけに再評価の対象になる可能性が大きいわけで、ホリエモン流に言えば「ウィン・ウィンの関係」で双方得することになります。
また、冒頭のオリジナル料理のたとえで言えば、もともとの食材にパロディという"意外性"を加えて"うまい"料理をつくったわけで、その価値自体には何の問題もないということになります。

そう考えると、『ジャングル大帝』や『ナディア』を元にしてディズニー映画がつくられたとしても一向に構わないわけです。
とにかく"うまい"料理=面白い映画でありさえすればいいのです。
ただ、この件でことさらにディズニーが叩かれるのは、自らの著作物を"100%オリジナル"として厳格に尊重させながら、他の著作物に対しては・・・というダブル・スタンダードに原因があるのでしょう。
過去の遺産に固執し、囲い込むことに汲々としている内に、新たな"創造"への動機が失われ、結果として閉塞状態に陥っていく・・・というのは、既に「巨人・ガンダム・自民党」でも指摘したところなんですけれどね。

こういう会社が幅を利かせる一方で、前回紹介したような「インターネット・アーカイブ」や「クリエイティブ・コモンズ」のような動きが出てくるのが、アメリカという国の面白いところです。
「著作権」のあるべき姿については、これからも試行錯誤が続くのでしょう。
ただ、その中で"100%オリジナル"という幻想を克服しなければならないこと、そして"オリジナル"な価値を生み出す基盤としての既存の文化への最大限の敬意・尊重とアクセス権の保障が必要であること、これらは確かなことです。
かりそめの利益に目を奪われて、将来を食いつぶすようなことはあってはならないのです。
by hirokira1 | 2005-05-03 03:13 | Cafesta過去ログ
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