突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
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2005年 11月 14日
トートロジーな説明について
仮に、「 ax + b = c 」という式があるとする。
これを例えば x について展開して、「 x = ( c - b ) / a 」などとするのは、もちろん数学的論理として通用する手続きである。

しかし、この ax + b = c が c について「 c = ax + b 」であることを利用して、
「 ax + b = c の c に ax + b を代入すると、左辺と右辺が等しくなる。
 従って、この式は何の意味も持たない無内容の式である。」

というような説明があれば、誰が見ても「これは変だ」と思うだろう。
もしこのような論理展開を認めるならば、いかなる式に対しても「この式は何の意味も持たない無内容の式」であるということになるからだ。
従って、上の説明の前半部分は「トートロジー」であり、それを根拠として後半部分のような判断を下すことは「誤り」となる。



というようなことをわざわざ書いたのは、前のエントリ及びその前のエントリで、トートロジーな説明について言及したからである。
これはこれで重要な問題だと思うので、先の言及に対する責任をとるという意味も含めて、ひとまず独立したエントリを立てて改めて確認してみよう。

『犬桑』さん「内田式論法ネタの後始末(3)」の中で、次のような説明によって、内田先生のこのエントリで述べられている内容がトートロジーであることを示そうとされている。

ええと、内田先生は「支配的な社会理論には、それがどのようなものであれ、必ずそれを教条化し、その理説のほんとうに生成的な要素を破壊する『寄生虫』が付着する。」と「哀愁の...」では書いています。

これを参照して「フェミニズムの発展を阻害しているのは曲学阿世の徒だ!」=「フェミニズムのほんとうに生成的な要素を破壊しているのは寄生虫だ!」だったらいくらなんでも異論は無いですよね?

で、内田先生は「寄生虫」という喩を「支配的な社会理論には、それがどのようなものであれ、必ずそれを教条化し、その理説のほんとうに生成的な要素を破壊する」ものがいて、そいつのことだと定義しているわけですから「フェミニズムのほんとうに生成的な要素を破壊しているのは寄生虫だ」=「フェミニズムのほんとうに生成的な要素を破壊しているのは支配的な(中略)生成的な要素を破壊するヤツだ」ってことになりますよね。トートロジーじゃないですか。違いますか?無理なんて全くありませんよ。


ここで展開されている論理は、

【式1】「フェミニズムのほんとうに生成的な要素を破壊している」もの=「寄生虫」

という内田先生の主張に対して、

【式2】「寄生虫」=「支配的な社会理論には必ず存在する、その理論を教条化し、その理説のほんとうに生成的な要素を破壊する」もの

という内田先生が述べている別の主張を代入することによって、

【式3】「フェミニズムのほんとうに生成的な要素を破壊している」もの=「支配的な社会理論には必ず存在する、その理論を教条化し、その理説のほんとうに生成的な要素を破壊する」もの

という言説を導き出し、両辺が同じ内容を持つものと判断して「トートロジー」と断定するというものである。

厳密に言えば、【式1】は「フェミニズム」についての主張であり、一方【式2】は「支配的な社会理論」についての主張である。
だが、【式2】を「寄生虫」についての定義として、「フェミニズム」についての文脈に限定された【式1】に代入した段階で、この二つの式の持つ差異は捨象されることとなる。
『犬桑』さんも、【式3】がトートロジーだと判断している以上、この捨象を当然のことと見なしているわけである。
従って、この論理展開において【式1】と【式2】は同じ内容ということになり、冒頭に挙げた事例同様、この論理展開は「トートロジー」であり、それを根拠として判断された「内田先生のこの言説はトートロジーである」という判断は「誤り」である。


あるいは逆の言い方をするならば、内田先生の言説が無意味・無内容であることを証明するその論理展開に、内田先生の言説が欠くことのできないパーツとして組み込まれているという時点で、その論理展開は矛盾しているということになる。


本来、内田先生が述べられている内容は、上述の式に関係する限りで要約すると、
「支配的な社会理論には、それがどのようなものであれ、必ずそれを教条化し、その理説のほんとうに生成的な要素を破壊する『寄生虫』が付着する。」
「フェミニズムにおいても同様に、そのような『寄生虫』が付着しており、フェミニズムのほんとうに生成的な要素を破壊している。」

という程度のことである。
これらはもちろん、内田先生の「支配的な社会理論」「フェミニズム」に対する認識を表明したものであり、「支配的な社会理論」や「フェミニズム」においてその認識が成り立たないことを確認しさえすれば、十分に反証可能な言説である。
ただ、これも当然のことだが、「支配的な社会理論」や「フェミニズム」に対して十分な知識と理解がなければ、実際に確認するのは極めて大変なことではある。
しかしだからといって、具体的な検証が困難なことと検証が不可能なこととは全く別の問題であることは混同してはならない。
検証「困難」であることと検証「不可能」であることとを取り違えることによって検証抜きにその言説を批判するのは、決して正しいやり方とは言えないだろう。


以下、「トートロジー」についての個人的な覚え書き。

ネット上をあちこち見ていると、常に正しい命題としての「トートロジー」という概念は、いろんな文脈の中で用いられていることがわかる。
ところが、「トートロジー」という概念の体系的解説となると、なかなか手頃なページが見あたらない。
『Wikipedia』の日本語版にあった「同語反復」の項目も削除されているし(もともと大した定義は書いてなかったけれども)。
ひとまず一番まとまっているページとして、『ふき出しのレトリック』というサイトの「トートロジー」の項目を挙げておく。
ここでは基本的にレトリック(修辞)としてのトートロジーを中心に紹介しているが、併せてジャック・デリダの理論に基づくトートロジーの解釈についても言及があり、論理的な意味でのトートロジーを考える上でも示唆に富む内容となっている。

今のところ、特に論理的な意味でのトートロジーを考える時には、その性質によって以下のように区分することができるのではないかと思う。

(1) 公理、公理系、論理学など、「常に正しいこと」として提示される論理、もしくはそれに基づく論理展開。

「公理」とは公理系を構築するに当たっての「前提として常に正しい」命題であり、その命題に基づいて「常に正しい」論理展開を積み重ねて構築された論理体系が「公理系」「論理学」である。

(2) 例えば「ダメなものはダメ」のように、一見無意味な繰り返しに見えるものの、特定のコンテクストに当てはめて「遂行的言明」として解釈することによって新たな意味が発見され、その内容を豊かにしうる論理展開。

「ダメなものはダメ」という言明が特定の文脈において、例えば「(常識的に)ダメ(と判断しうるよう)なものは(実際に)ダメ(なものとして処理されなければならない)」というように実際に解釈されることによって、それ以前の「ダメ」とはほんの少し異なる意味としての「ダメ」が見いだされることとなる。
とすれば、ここに出てくる二つの「ダメ」も、次に改めて「ダメなものはダメ」という言明がなされる時の「ダメ」も、一つとして同じ意味にはならず、従って同じ言葉の無意味な繰り返しとは解釈され得ない。
デリダの書いたものを直接参照したわけではないが、言わんとするところはこのようなことではないかと思うし、内田先生などもこの種のトートロジーに関してはむしろ好んで使う傾向があるように感じられる。

(3) 上の二つと一見似た形式を取りながらも、例えば本エントリの冒頭にあげた例のような、実際にはいかなる知見も発見ももたらさない、全く無内容・無意味の論理展開。

ここに分類される論理展開と、特に(2)で示したような論理展開をどのように弁別するかということが当面の問題となる。
恐らくは、その論理展開自体が遂行的な解釈を捨象してしまう、もしくは拒絶してしまう場合には、必然的にこちらに分類されることになるのだろう。
冒頭の代数の事例で言えば、遂行的な解釈をもたらすべき ( ax + b ) と c との関係性が、 c について代入することによって捨象されてしまっている、と考えることができる。

デリダ的立場に立てば(3)のようなトートロジーは存在し得ないということになるのだろうが、それはあくまでも論理展開そのものから導き出されるものではなく、特定のコンテクストの下でこのような論理展開が提示される意味という、メタな立場からの判断ということになるのではないか。

以上、現時点では深く検討する余裕のない、単なる思いつきなのだけれど、ひとまずは今後のための覚え書きとして、ここに書き留めておく。
by hirokira1 | 2005-11-14 00:26 | 論理的考察
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