ネットにおける「名」と財産 |
しばらくご無沙汰している内に年が明けてしまいました。
このページをごらんになっている奇特な皆様、今さらですがあけましておめでとうございます(苦笑)。 今年もマイペースでやってゆきますので、よろしくお願いします。 今、「MyHPの不具合修正状況のご報告」をクリックしてみたところですが、リニューアル以降の不具合ってこんなにたくさんあったんですね・・・。 私などはろくに来てなかったので気づきもしなかった点が多々あるのですが、ホント、これだけ不具合だらけだったら嫌気が指す人が続出しても不思議じゃないですねぇ(ため息)。 まあ、私としては不具合以外の不満もないではないのですが、行きがかり上もうしばらくは厄介になろうかと思っているところです。 閑話休題。 私が半休眠状態に入ってから、『週刊アスキー』で連載している歌田明弘氏がコラムサイト『地球村の事件簿』をブログを使って再開されたようです。 (参照→http://blog.a-utada.com/chikyu/) 後でリンク集の方にも追加しておきますね。 その『地球村の事件簿』に最近アップされたコラムで、物議を醸したのがこれです。 「2ちゃんねるの時代は終わった」 (参照→http://blog.a-utada.com/chikyu/2004/12/post_2.html) タイトル自体に過剰反応した2ちゃんねらーその他の人々の書き込み・トラックバックが集中したようですが、まあ2ちゃんねるの話はさておいて。 (言うまでもなく、このタイトルは「2ちゃんねる」が終わったということではなくて、「2ちゃんねるが特別な存在であった『時代』」が終わったということです。それでもなお、異論はあるでしょうが・・・) 記事全体の趣旨については実際に読んでいただくとして、私が気になったのは、以下のくだりです。 オタク文化考察サイト『ARTIFACT』のブロッガー、加野瀬未友氏はこれまでのネットの流れをふり返り、次のように言っている。日本でもパソコン通信の時代にはリベラルな考えの人が多かったが、「2ちゃんねるみたいな匿名性になることでずいぶんと風景が変わってしまった」。そして、「右系のブログというのはちょっと少ないかなという印象がある」と述べている。 「右翼ブログ」の多寡についてはトラックバックで反論があるように「少ない」とは言い切れませんし、私自身「右翼ブログ」の実例をかなり知っているだけに、右/左の問題とブログを結びつけるのは無理があると思います。 ただ、 「ネット上にウェブ・サイトという「自分の空間」を持ち、仮想的にでも「人格」を持つようになると発言の仕方が変わる」 「仮想的にでも人格を持つとミもフタもない言い方はしなくなる場合が多い」 という指摘は、非常に説得力があるとも思いました。 この指摘は、HotWired Japan上で白田氏がより詳細に論じている文章とも相通ずるものです。 白田秀彰 の 「インターネットの法と慣習」 第3回 自力救済と紛争解決 (参照→http://hotwired.goo.ne.jp/bitliteracy/shirata/030723/textonly.html) 第4回 名誉と自力救済、そして法 (参照→http://hotwired.goo.ne.jp/bitliteracy/shirata/030826/textonly.html) 特に第4回の方が直接に関わる文章で、その前提として第3回がある、という関係で両方挙げておきました。 この2本のコラムは、中世ヨーロッパの紛争解決の構図をベースにして、現在のネット上における紛争解決のための糸口に導いていく・・・という論理展開が面白いのですが、例によって詳細に紹介するとキリがなくなるので、一番肝心と思われる部分だけを、第4回の方から羅列的に引用しておきます。 現在のネットワークでは、アーキテクチャ以外の法や制度の助けなく所有できるものは「名」しかない。 現在のネットワークは、・・・現実の自分とは結びつかないハンドル(変名)や匿名を用いて、ネットワークで活動している人たちが多い。こういう人たちのことを遊戯的参加者と呼ぶことにしよう。 その一方で、仕事に関連してネットワークへの依存度が高い人たちも増えつつある。こういう人たちのことを実務的参加者と呼ぶことにしよう。 こうした実務的参加者は、自らの生活手段の一要素となっているネットワークでのハンドル、およびそれに付随した名誉、信用、評判を守ろうと努力するだろう。・・・名誉、信用、評判は、安全の要であり、これを毀損されることは、致命的問題でもある。 ここで、前回の話に戻して、絶対的な上位権力の介入を排除しつつ、ネットワークの秩序維持する条件について考えてみる。実務的参加者については、紛争解決において その「名」を賭けることで、発言に関する誠実さを担保することができそうだ。紛争をまわりで見ている人たち、前回の例えを用いれば「判決人」たちに嘘や不誠実さを印象付けてしまえば、それまでハンドルを軸として蓄積してきた名誉、信用、評判を大きく損なうことになるからだ。一方、遊戯的参加者の場合は、法を発展させるだけの誠実さを期待することは難しいだろう。もとより、固定的な人格を表明しないか、あるいは容易に捨て去ることのできるハンドルしか固有のものを持たないからだ。 白田氏の結論としては、最後の一文に書かれた ネットワークにおける「名」を賭けて活動する武士道・騎士道的精神をもってほしい ということに尽きるのだろうと思います。 もっともそれは、文中で氏が述べているように現在のネットの状況からすれば相当に勇気のいることなのですが・・・。 さて、翻って自分自身のこととしてこの問題を考えてみます。 私自身は白田氏の二分法で行けば、「実務的参加者」ではなく「遊戯的参加者」ということになります。 しかし、一方で「固定的な人格を表明しないか、あるいは容易に捨て去ることのできるハンドルしか固有のものを持たない」というわけでもないような気がします。 少なくとも、「ひろ」もしくは「ひろ☆」として公開した80本余りの文章の蓄積が、ネット上の「名」を裏打ちする財産として存在しているとは言えるわけです。 「名誉、信用、評判」がどれほどあるかはともかくとして、「ひろ☆」というハンドルと直接結びつけられた財産があれば、「ネットワークにおける「名」を賭けて活動する」ことは可能です(ただしその財産をハンドルと結びつけて公開している限りにおいて。ネット上から一旦削除すればそれは全くの無に帰す)。 歌田氏の指摘における「ブログ」も、そう言う意味ではやはりネット上の「名」を裏打ちする財産と言えるのでしょう。 現実社会の営みの中で、ネットの果たす役割はますます大きくなっていくとはいえ、全ての人が白田氏のいう「実務的参加者」になることはまずあり得ないでしょう。 それでも、また例え実名でなくハンドル名で活動するにしても、蓄積のあるウェブサイトやブログを持ち、それらネット上の財産と連結する固定ハンドルで活動する人たちの振る舞いは、「実務的参加者」のそれにかなり近いものになるような気がします。 そのような人たちがネット上の主流を占めるようになれば、ネット社会の未来も随分と明るくなるのではないかと期待する次第です。 「責任・誠実さは、ある状態から容易に離脱できない拘束性から生じる。」 (白田氏・第4回コラムより) 更新は遅くとも、一つ一つ「財産」を積み重ねていきたいと思います。 |
by hirokira1
| 2005-01-10 01:36
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