「PL法」から見た平和活動 |
しばらく前だが、リンク集にも挙げている常岡氏が、日記で「PL法で戦争を…」と題して興味深い文章を書いていた。
(参照→http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=61383&log=20040606) 概要は、アメリカの戦争犯罪をアメリカの法律で、例えばPL法で糾弾できないか?というものだ。 常岡氏の文章を、ほんの一部だけ引用する。 -------- クラスター爆弾にしろ、通常の爆弾にしろ、対人地雷にしろ、 それによって被害を受けた一般市民が、爆弾投下や地雷敷設の責任者、 あるいは兵器製造者を訴えることができれば、 特にそれを一般化することができれば、 高額の賠償金が戦争での非人道行為の抑止力として働く可能性がある。 -------- 同じようなことを、宮崎学氏も書いているそうだ。 『キツネ目事件調書』「戦場でモノ拾う好奇心こそ記者の資質 不発弾爆発は米国軍需産業の製造者責任を追及せよ」 (参照→http://www.zorro-me.com/2003-5/ag030520.html) 常岡氏も冒頭で触れている、毎日の五味記者が爆弾を持ち帰ろうとした事件に関連した文章である。 「誤爆」や「不発弾の爆発」を、軍需産業の製造者責任として追及しようというアイデアが、面白い。 たとえば、命中率90%を売り物にする某ミサイルが、実際には20〜30%しか当たらないとしよう。 本来の目標から外れた60〜70%の爆発で発生した損害や死傷者は、本来の「品質」を保証できなかった「メーカー」の責任というわけだ。 もし被害者の側が、アメリカのPL法を盾に、その「メーカー」責任に基づく賠償請求をすることができたとしたら? あるいは、アメリカ人自身が「90%の確率で悪者に当てられるというから戦争に賛成したのに、『品質』を偽ったばかりに『誤爆』が増えてアメリカ人が敵視され、危険にさらされるようになった。損害賠償しろ!」とか訴えることができるとすれば? 戦争がもたらす「不条理」全体からすれば一面的な切り口に過ぎないが、アメリカ国内でのPL法にまつわる「常識」−日本とは比べものにならない金額が賠償される−が適用されれば、たぶんアメリカの軍需産業は大ダメージを受け、アメリカは滅多なことでは戦争できなくなると思う。 ただし、法律的にこのような手段が本当に可能かどうか、常岡氏もわからないそうだ。 私にも、わからない。 それでも、今なお「聖域」として平時の常識から切り離された思考がまかり通る「戦争」を、このように当たり前の視点で考えることは無意味ではない、と思う。 少なくとも、教条的に「戦争はイケナイ」と念仏のように唱えるだけの平和活動よりは、期待が持てるのではないか。 |
by hirokira1
| 2004-06-29 21:58
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