突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
by hirokira1
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カテゴリ:Cafesta過去ログ( 101 )
2004年 08月 17日
当たらなくていい?メダル予想の意味
昨日の日記で、本題よりも大きな扱いになってしまった(笑)メダル予想の話について、言いっぱなしではまずいので一応補足しておくことにします。

#それにしても、このテーマで社会カテゴリとは・・・意固地というか、もはや偏屈ですな(爆)。


『Sports Illustrated』誌に限らず、あちこちで言われてきたメダル予想は、既に「結果」によって覆されつつあります。
まあ、私は「予想」が「結果」に符合するかどうかには、実はあまり興味がないのですが・・・「結果」を「予想」するという行為は、しばしば「結果」のみによって判断されがちで、なかなか難儀なものです。

ただ、「予想」は決して「結果」を的中させるためだけにあるのではない、と私は思います。

「予想」とは、いわばその物事に対して、特定の“見方”を提示するものだ、というのが私の考えです。

『Sports Illustrated』誌の場合、昨日取り上げたマーティ・キーナート氏は例えば次のような事例を引いて、その特徴を表現しています。

私のところには、同誌編集部の「ファクト・チェッカー(事実確認の担当者)」からよく電話がある。日本や日本人アスリートに関する記事について確認するためだ。スポーツ・イラストレイテッドは、ライターが何でも自由に書くことを無条件で認めてはいない。記事が正確であることに大きな誇りを持っているのだ。


専門知識の徹底的な収集と、それに基づく組織的かつ客観的な分析が同誌のモットーであるということが、この事例からもうかがえます。
本来なら、単に“権威ある専門雑誌のランキング”というだけでなく、それとともに掲載された様々な記事と読み合わせないと、ここのメダル予想は評価できないと思われますが・・・そういうことを言い出すと雑誌そのものを買わないといけないしなぁ・・・(^^;

もう一つ、同氏がメダル予想について書いている記事に、こういうのもあります。

「日本の評価は「もっと頑張れるはず」−−いざ、アテネは?」
(参照→http://www.mainichi-msn.co.jp/column/marty/news/20040729org00m070059000c.html

 前回のシドニー大会に先立ち、アンドリュー・ベルナール(ダートマス大学)とメガン・ブセ(エール大学)の2人のアイビーリーグ大学教授が、各国に「ふさわしい」メダル獲得数を予想する研究を発表した。「オリンピックの勝者は誰か」と題されたリポートは、各国のGDP(国内総生産)、人口、1人あたりの収入を比較することによって、メダルの獲得数をかなり正確にいい当てていた。

 実際、2人の予想は信じられないほど正しかった(たとえば、アメリカは予想97個/結果97個、フランス38個/38個、イタリア35個/34個、オーストラリア52個/58個、韓国27個/28個、日本19個/18個)。


ここで表明されている“見方”は、メダル獲得数は国家の経済状況と相関関係にある、つまり経済力とほぼイコールであるということです。

「そんな、身も蓋もないよ」とお思いの方もいらっしゃるでしょうが、逆に考えると、この“見方”に立つことでスポーツの「意外性」に対してより敏感になれる、さらには経済小国のメダリストに対してより賞賛の念が湧く、という考え方もあると思います。

明確なコンセプトに基づく事前予想は、間違いなくスポーツ観戦をより豊かなものにするはずです。
逆に明確なコンセプトを持たない事前予想は、単なる「当たりはずれ」でしか評価できません。

「お国自慢」の域を出ないメダル予想では、日本人選手の勝ち負けにしか興味が湧きません。
それはむしろ、せっかくのオリンピック観戦の「視野」を狭めてしまうように思われてなりません。

今騒然としているプロ野球改革にしても、まずありきたりの「順位予想」のあり方からまず変えた方がいいのでは?と思ったりして・・・。

まあ、「結果」がはずれるのを見るのも「予想」の醍醐味のうち、ということで楽しく応援することにしましょう。
ただし、くれぐれも寝不足には気をつけてね(←人のこと言えないって)。
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by hirokira1 | 2004-08-17 22:29 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 16日
リンク先勝手にレビュー(5) 萬晩報
最近重苦しいテーマばかりだったので、ここは一つ気分転換、久々の「リンク先勝手にレビュー」といきましょう。

「萬晩報」については、最近も「年金と出生率について」で紹介しましたので、ご記憶の方もいらっしゃると思います。

このサイトの基本コンセプトについては、
萬晩報(よろずばんぽう)は通信社の現役デスクである主筆を中心に内外に65人の通信員を抱え、分野を超えたコラムを発信するジャーナリズムです。題字は、明治時代末期に日本最大の発行部数を誇った黒岩涙香の「萬朝報」(よろずちょうほう)にあやかりました。萬晩報の「晩報」は中国語で「夕刊」の意味です。・・・(後略)・・・(「萬晩報とは」より)

というふうに紹介されています。
「65人の通信員」とは基本的にアマチュアの“市民”通信員であり、それぞれの通信員が寄稿したコラムは「主筆」のチェックを経た上で掲載されることになります。
その意味では、「ネットでつくる市民新聞」と呼ぶのが適切でしょうか。

ただ、サイトの運営という点では、どこまでも個人サイトという気もします。
それは一面では長所となり、一面では弱点となります。

例えば、同様の性格を持つサイトとして、「JANJAN NPO型インターネット新聞」と比較してみるとわかりやすいと思います。
(参照→http://www.janjan.jp/
イラクで人質になった今井紀明君(←不適切な表現?)も記事を書いているところですね。

「JANJAN」の方はあまりチェックしてないので一部の記事だけを読んだ感想に過ぎないのですが、個人的には「記事のニュース性に対するチェックが甘いのではないか」という印象を持っています。

例えば、今開催中のアテネ五輪に絡めて、「こんな予想(米誌)、どう思う?」では、アメリカの『Sports Illustrated』誌のメダル獲得者予想を紹介しています。
各競技別に、「こんな予想おかしい!」などといちゃもんをつける文章(まるで居酒屋の会話のノリ・・・^^;)はさすがに「掲示板」回しになってますが、既にあちこちで紹介されている内容と比べてニュース性も希薄、分析もほとんどないというこの記事に、違和感を憶えてしまいました。

『Sports Illutsrated』誌の予想にけちをつけるなら、せめてマーティ・キーナート氏の向こうを張るくらいできないかと思ってしまうのですが、やはり過剰な期待なのでしょうか?
(参照→http://www.mainichi-msn.co.jp/column/marty/

むろん私のような部外者に運営の実態などわかるはずもありませんし、一方で非常に内容の濃い記事も少なくないのですが、やはり投稿のチェック→掲載に至るハードルはそんなに高くないのではないかと疑ってしまいます。
毎日多数の記事を掲載しているわけですから、一々厳密なチェックが出来ていないとしても、それは仕方のないことなのかも知れません。
ただ、時々おじゃまして記事を拝読させていただいている立場から言わせていただければ、どうしても「クオリティが保証されたニュースサイト」というよりは「管理が行き届いた掲示板」という印象が拭えないのですが・・・。

#以上、「JANJAN」については十分な分析をもとにした意見ではありませんので、詳しいことをご存じの方がいらしたら是非ご教示ください。


一方、「萬晩報」の方はさすがに通信社のデスク(今は支局長)が自分の名の下に運営しているだけあって、「ニュース性」に対するチェックはきちんとしているように思えます。
ただ、悲しいかなどこまでも個人サイトなので、扱う記事(コラム)の数は比較にならないくらい少ないのですよね。
一時期は非常に活況だったようですが・・・個人が仕事の合間にする余技だと、なかなか“ままならない”のかな?と、余計な心配をしてしまいます。
最近ではすっかり「枯れた」サイトという感じで、時には10日以上更新されないこともあるのですが、たまに見かける「キラリと光るコラム」を求めて、ついつい毎日チェックしてしまう私・・・(^^;

「萬晩報」のコラムの内容については、主筆のチェックがあるとはいえ通信員によってかなり違いますが、私個人としては美濃口坦氏成田好三氏が特にお気に入りです。

美濃口氏はドイツ在住で、日本に居ては気づくことの出来ない様々なテーマ、国際感覚を切り取るのが真骨頂だと思います。
実は「萬晩報」よりもアサヒ・コムのAICの方に毎週コラムの枠をお持ちですので、そちらの方が読みやすいかも知れません。
(参照→http://www.asahi.com/column/aic/Tue/tan-bn.html

成田氏はスポーツを中心とした硬派の分析で、あちこちにコラムを書いておられるようです。
個人のコラムサイトもお持ちで、まとめて読むには便利です。
(参照→http://www.mito.ne.jp/~narita/

というわけで、このサイトも含め、リンク集に挙げているサイトはほとんど毎日チェックしている私です(苦笑)。

ああ、はやく「年金講座」の三本目が出ないかな・・・。

【訂正 8/17 22:30】たった一つしかない英単語の間違い(苦笑)を修正・・・お恥ずかしい(TT)
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by hirokira1 | 2004-08-16 23:08 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 15日
女性の目から見た「戦争」とは?
今日は「終戦記念日」。
正しくは「敗戦記念日」と呼ぶべきだ、という向きもあるようですが、「これで戦争が終わるはずだった」、そして「なのに相変わらず戦争が続けられている」という思い(皮肉)を込めて、ひとまずそう呼んでおくことにします。

今回は「つくる会」というよりは、戦争を「仕方がない」と容認してしまう動きに対して、女性の問題から考えてみようと思います。


しばらく前ですが、東京新聞のサイトに次のような記事を見つけました。

「イラク米兵の妊娠 実態は」=東京新聞
(参照→http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040627/mng_____tokuho__001.shtml

実態こそ明らかになっていないものの、多くのメディアが数の増加を指摘する米軍女性兵士の妊娠問題を取り上げたものです。
十分な避妊具・避妊知識が提供されている米軍の女性兵士がなぜ妊娠するのか、この記事では「性的暴行」と「戦場からの離脱」という視点から分析を加えています。

この中で私が驚かされたのが次の一節です。

 実態については「女性兵士で未遂も含めてレイプなどを受けたことがある兵士は5%。一方、セクシュアルハラスメントは60%で、米国の一般社会とほぼ同じ。男性兵士も1%が性的暴行に遭っている。性的暴行は一件だけだったとしても多すぎることに変わりはないが」と平静を装うが、レイプなどの数字は一般社会に比べ、極めて高い。


「5%」って、いったい・・・。

単純に考えても、男女半々の40人クラスでクラスに一人は被害者がいる、というのはどう見ても異常です。
しかも、軍隊という組織の性質を考えれば、実態としてはより高い数字を想定するのが当たり前でしょう。
イラク人収容者に対する虐待の事実が発覚して世界中を震撼させたのは記憶に新しいところですが、仮にもこちらは友軍での話。
「戦争」が抱える「業」の深さは、我々の想像を絶するもののようで、暗澹とした気分にさせられます。


このように、「戦争」において女性が受ける被害というのは極めて現在的な問題なのですが、それは過去に対する「語り」の中にも大きく影を落としているように思えます。

例えば「南京事件」に関わる言及として、リンク集にも挙げているゆう氏の「南京事件 小さな資料集」の中に次のようなものがあります。

「被害者の「出産ラッシュ」?」
(参照→http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/higasinakano1211.html

ここで槍玉に挙げられている東中野修道氏の「論証」の杜撰さは言うまでもありませんが、興味深いのはゆう氏の言及がそこに止まらず、ボスニアやルワンダの事例も詳細に紹介している点です。
少なくとも「南京事件」当時よりはずっと自由な取材・報道が可能なこれらの事例ですら、女性に対する強姦の事実は滅多に表に出ることはありません。
この種の犯罪の卑劣さと深刻さがうかがわれるというものです。

このような事情に配慮する想像力を欠いたまま、「出産ラッシュがなかったから大規模な強姦事件はなかったのだ」と言い切れてしまう論者の存在は、それ自体犯罪的ではないかと思います。

同種の主張をしているものとしては、他にも

「北村稔批判−空前の大姦淫の否定を批判する」
(参照→http://www.nextftp.com/tarari/daikanin.htm

などがありますが、ここで紹介されている北村氏の論理もほとんど「妄想」の域を出ておらず、よっぽど暇な方以外は読むことを勧められません。


また、「従軍慰安婦」(この表現自体不適当とする意見がありますが、ひとまず通用しているのでこのままにしておきます)をめぐる言説にも、同様の構図が見られます。

国の関与を示す文書が出てきたことで、「慰安婦」の存在自体を否定しようとする動きこそなくなりましたが、何かと理屈をこねて「正当化」しようとする動きは後を絶たないようです。
主な論旨としては
・「慰安婦」のうち、大部分は「強制連行」された者ではない
・「慰安婦」は多額の報酬を受け取っている

などを根拠にして、彼女らの行為は商行為とみなすべきだ、というものです。

暴力的な行為によって「誘拐」されていなくても、詐欺的な行為によって騙して連れてくるのであれば、その犯罪性は何ら変わるものではありません。
また、強制して「慰安婦」の仕事をさせる以上、報酬の多寡によってその行為が「正当化」されるという発想はそれ自体卑劣と言わざるを得ません。
このような「正当化」の論理も、やはり犯罪的で恥ずべきものと言えるでしょう。

なお、「慰安婦」問題についてはいろいろなサイトが参考になりますが、質・量とも豊富なものとして、次のサイトを挙げておきます。

「半月城通信 テーマ別総目次」5.「従軍慰安婦」
(参照→http://www.han.org/a/half-moon/mokuji.html#ianhu


私個人としては、このような物言いを許容する「つくる会」をはじめとする主張に対して、女性の立場からどのように見えるのか、非常に気になるところです。
ここで展開されている論理は、およそ女性の側からの視点、女性の立場に対する配慮を全く欠いていることは間違いなさそうです。
同様の論理を現代社会に適用すれば、弱者としての女性の立場を今まで以上に危うくするとしか思えません。

そもそも「戦争」を許容する価値観と女性の立場とは、お互い「相容れない」関係のようにも思えるのですが・・・賛同している女性も相当数いるようで、正直不思議でなりません。

できれば、率直なご意見を承りたいところです。
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by hirokira1 | 2004-08-15 22:54 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 13日
「ジェンダーフリー禁止」記事の不可解
昨日の日記、思わぬ反響の大きさに驚いてます(^^;
実は今日の日記として、より特殊なテーマを用意していたのですが、こうなるとちゃんと続きを書いておかないと据わりが悪いなぁ・・・。
そう思っていたところに、偶然にも一番星さんからタレコミ情報(!)をいただきましたので、取りあえずそのネタでお茶を濁しておくことにしましょう(苦笑)。

今日付のニュースで、東京都教委が「ジェンダーフリー」と男女混合名簿の禁止を検討しているとのことです。

「「ジェンダーフリー」教育現場から全廃 東京都、男女混合名簿も禁止」=産経新聞
(参照→http://www.sankei.co.jp/news/040813/morning/13iti001.htm

「男女混合名簿の見直し検討 ジェンダーフリー禁止も」=共同通信
(参照→http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040813-00000097-kyodo-soci

両者読み比べて見ればおわかりかと思いますが、記事の内容にかなりのずれが見受けられます。

例えば「ジェンダーフリー」について、上の産経の記事では
東京都教育委員会は十二日、「ジェンダーフリー」という用語を教育現場から排除することを決めた。

となっていますが、共同通信の方では
学校では使用しないよう通知することも検討している。

という表現に止まっています。


また、男女混合名簿についても、産経では
作成を禁止する方向で検討している。

としているのに対し、共同では
都教委は「どのような名簿を作成するかは最終的には校長の自主的な判断。一律に禁止するわけではない」としている。

となっていて、かなりニュアンスが違います。


日付等から判断して、共同の記事は産経の後追いと見て間違いなさそうですが、そこから推察できる状況の違いを考慮に入れても、なお産経の記事の「不可解さ」はぬぐい切れません。

一つは男女混合名簿をめぐる記述ですが、
また、都内の学校では一部の教職員や市民グループらがジェンダーフリー思想に基づき、「男子が先で女子が後は男女差別」などとして、男女を一緒にして五十音順に並べる「男女混合名簿」の導入を推進している。

と「一部」の人々を非難しながら、その直後には
男女混合名簿については、都は平成十四年、「全校での実施を推進する」などと定めたが、都教委は「男女の性差を否定するような思想に基づき男女混合名簿を作成しようとする動きが見られる」として、作成を禁止する方向で検討している。

と、男女混合名簿の実施がもともと都の方針であったことに触れています。

私は都民でもなく、この問題のウォッチャーでもないので、実際の経緯については知りません。
しかし、都の方針により実施されたのが事実であれば、前半の「一部」に対する非難は筋違いの誹謗中傷と言わざるを得ないこと、明白でしょう。
この記事の掲載に関わった記者・編集担当の見識を疑わざるを得ません。


また、「ジェンダーフリー」に関しては
「ジェンダーフリー」は、その意味や定義がさまざまで、単純な生物上の区別や「男らしさ」「女らしさ」といった観念まで否定する極端な解釈もされている状況。

と述べていますが、末尾の用語解説として
【ジェンダーフリー】社会的に形成された性別「ジェンダー」からの解放を目指すという考え。「男女共同参画社会の実現」から「画一的に男女の違いを無くし、人間の中性化を目指す」までさまざまな意味で語られている。男女混合名簿導入にも影響を与えており、東京都内では今年4月現在、小学校81%、中学校42%、全日制高校83%で、男女混合名簿が導入されている。

と「定義」しています。


ジェンダーフリーの定義としては、例えばWikipedia
男女の文化的役割であるジェンダーを廃し、個々人がそれぞれの個人としての資質と生物的性差に基づいて果たすべき役割が決定されるべきであるとする考え方、運動。「画一的に生物学的な男女の性差までも否定しようとする考え」ではない。

というのが妥当なところでしょう。

「社会的に形成された性別「ジェンダー」からの解放を目指すという考え」というここでの「定義」もそれほど差があるわけではなく、その意味では「定義がさまざま」とは言えないように思われます。

ただし、その後に続く「画一的に男女の違いを無くし、人間の中性化を目指す」という意味づけとの比較で考えると、産経の「定義」はこの意味づけを許容する表現として敢えて選択されたもの、と見なすこともできます。

この「画一的に男女の違いを無くし、人間の中性化を目指す」という点こそが「ジェンダーフリー」批判の最大の根拠となっていることを考えれば、Wikipediaなどの穏当な定義に「誤解や混乱が生じ」させているのが誰なのか、わかりやすいのではないかと思います。
これまで「南京大虐殺」や「強制連行」で見てきたのと、ほとんど同じパターンです。

もちろん、このような誤解は「ジェンダーフリー」を掲げる一部の過激フェミニストにも見られるようで、その責を産経新聞やその支持者などに「のみ」押しつけるのは正しくないでしょう。
しかし、そういう誤解に立脚しなければ彼らの主張自体成立しないことは、この記事の支離滅裂さからも理解できるのではないでしょうか?

この件については、そのうちどこかのメディアでより詳しい解説がなされると思いますので、それを待ちながらしばし静観したいと考えております。
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by hirokira1 | 2004-08-13 23:59 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 12日
「男女平等」がお嫌いな方たち
前回までの「センター試験」ネタで、訴訟にこそならなかったものの、論点として挙げられていたものに、「男女平等」に関する問題があります。

結局「つくる会」の公開質問状にも掲載されず、その意味では「つくる会」の公式見解というほどでもなさそうですが、関連記事の中には、例えば以下のような「批判」があるようです。

「大学助教授が質問状を提出  世界史の「強制連行」」
産経新聞 平成16年1月22日

(参照→http://www.tsukurukai.com/01_top_news/file_news_ct/ct_news_040122_3.html

「入試を洗脳手段にするな」東京女子大教授 林道義
産経新聞 平成16年2月2日「解答乱麻」

(参照→http://www.tsukurukai.com/01_top_news/file_news_ct/ct_news_040202_2.html

で、その批判対象となった問題を見てみましょう。関連する部分のみ引用しておきます。

現代社会 第一問
 次の文章は、スウェーデンに住む大学生ハンナが、日本の高校生ケンに送った電子メールである。これを読んで、下の問い(問1〜4)に答えよ。

 ケンちゃん、メールありがとう。
 アキコおばさんが市議会議員に当選されたと聞いて、すごくうれしかったわ。以前日本に住んでいたとき、女性議員は少なかったと記憶しているのだけど、少しは増えた?最近は、《下線部a:日本も男女平等の社会づくりを進めている》んだって?去年の夏、おばさんがスウェーデンの議会政治を視察に来られたとき、男女平等が進んでいると感心されていたんだけれど。確かに《下線部b:女性の議会進出》という点でも、他の北欧諸国と並んで先進的だと言えるわね。
 ・・・(後略)・・・



以上の文章を受けて、問1で出された選択肢のうち、
夫婦同姓を定める現行の民法については、一方の配偶者が不利益を被ることもあるとして、選択的夫婦別姓制度を求める動きがある。

という一文(ちなみに選ぶべき「適当でないもの」は別にあるのでこの文は「適当」ということになる)と、問2で「各国議会の議員に占める女性議員の割合」についてのグラフ読み取りの問題(ちなみに各国のうち最も女性議員の割合の少ないのが日本)が
「特定の思想を表現するような偏った内容」(林氏)
であるというのが、主な批判の趣旨であると思われます。

いったいどこが「特定の思想」で「偏った内容」なのだろうか??

一々具体的な論点を挙げて反証してもいいのですが、今回はその必要はないと思います。
上の二つを読めば、前回の「強制連行」以上に無理のある論理展開だということは一目瞭然でしょう(わからなかった方はご一報ください)。

ちなみに、林道義氏という方は、他にもこういうことをされているようです。
「荒川区の“共同参画”条例案取り下げ」
(参照→http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040701/mng_____tokuho__000.shtml

まあ、こういう方のおっしゃる「特定の思想」「偏った内容」ですから・・・(苦笑)。


それはともかくとして、今回の訴訟では表に出てこないものの、どうしてこの手の方々は「男女平等」や「ジェンダーフリー」に対してここまで過剰な拒絶反応を示すのでしょうかねぇ?
上に挙げた東京新聞の記事では、「ジェンダーフリー」の本来の意味である『性差別意識』の解消を『性差意識』の解消と誤解した動き、と解説します。
それはもちろん当たっていると思うのですが・・・それ以前の問題、としか思えない言説も少なくないようです。

単純なところでは、学校における名簿を「男女順名簿」から「男女混合名簿」にしようとする動きに対して、「男女混合の名簿にすれば世の中から男女差別がなくなる」なんてことがあるわけない、と切って捨てるとか。
一例として、自由主義史観研究会の「「ジェンダーフリー」 って 何でしょう?」という授業報告を挙げておきます。
(参照→http://www.jiyuu-shikan.org/teachers/hattori/0311.html

「男女混合名簿」は、あくまでも無意識の内に常識になってしまった「ジェンダー」を意識するきっかけの一つに過ぎません。
本当の意味で「男女平等」を実現するためには、様々な角度からの変革をねばり強く持続的に進めていくしかないことは自明です。
それだけでは目的を実現できないからおかしいと言ってしまえば、あらゆる試みが無意味になる、ということくらいは理解してから発言して欲しいものです。

こういうことを言わなければ、「つくる会」の支持者も多少は増えるのかも知れないのに・・・。
世の中の半数を占める女性を敵に回してでも、このような「無理筋」を排除できないのは、もしかしたらより深いところで「つくる会」の主張と結びついているからなのかも知れません。
この問題、もう少し考えてみたいと思います。
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by hirokira1 | 2004-08-12 19:36 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 08日
センター試験訴訟と「強制連行」(下)
時間が空いてしまったのですっかり忘れていましたが、積み残しのテーマについて、ひとまずまとめておきます。

前回までの流れで、残された論点は「強制連行」の史実としての是非のみ、ということになっていたはずです。
ここでは念のため、平成十六年一月二十七日付で出された、「大学入試センター試験の「強制連行」に関する設問についての公開質問状」から、関連する部分を引用することにします。

c. ここで使われている「強制連行」という奴隷狩りを連想させる用語は、戦後になってから日本を糾弾するための政治的な意味合いをもって造語された言葉であって、事実をあらわすものではない。日本統治下の朝鮮においては、「国民徴用令」にもとづく徴用が一九四四年九月から実施された。センター試験の設問は、対応する歴史的事実としては、この徴用を想定していると推定される。しかし、当時は朝鮮半島の人々も日本国民だったのであり、徴用は国家による合法的行為であった。この設問は、日本政府が第二次大戦中、朝鮮人の奴隷狩りを行ったという虚構の歴史を、大学受験という制度を利用して日本国民に押しつけようとするものである。

(参照→http://www.tsukurukai.com/01_top_news/file_news_ct/q_040127.html

一見しただけでも、
「「強制連行」という奴隷狩りを《連想させる》用語」
「この徴用を想定していると《推定される》」(以上、《》は筆者による補足)

など、論理展開の強引な表現が見受けられます。
この二カ所は「強制連行」否定論の根幹に関わる部分であり、同時に重大な誤解をはらむ(もしくは誤解へと誘導する)部分なのですが、これらの表現が何故“誤解”なのかを証明するにはちょっとした知識が必要になります。

当初は私自身で証拠を集めて反論するつもりだったのですが、何分素人故、払うべき労力は相当の物です。
この件については、ネット上に公開されている学術論文を見つけることができましたので、その論旨を紹介する形でc.への反駁とさせていただきます。


一橋大学非常勤講師の外村大氏による「朝鮮人強制連行―その概念と史料から見た実態をめぐって―」は、今回のセンター試験訴訟を受けて執筆されたこともあり、「つくる会」の朝鮮人に対する「強制連行」否定論に対して十全な反証となっています。
(参照→http://www.h2.dion.ne.jp/~kyokasho/sotomura.html
ただし、何分専門家による学術論文ですから、いくらウェブ上に公開されているとはいえ、「ざっと一読してください」というには気が引けます(とはいえ、大卒程度の教養があれば理解できないということはまずないはずですが^^;)。

「つくる会」の活動を見ていると、自らの見解を世の中に認めさせるに当たって、
(1) 学界における学術的議論を通じて通説的理解を変えさせる。
(2) 社会の多数派を取り込み、一般人の共通認識として受け入れさせる。
(3) 自説を主張し続けることで一つの見解として一定のポジションを獲得する。

という選択肢のうち、少なくとも(1)についてはほぼ放棄しているように見受けられます。
つまりは学術的議論に耐えない主張でも、より知識の乏しい一般人向けであればそれなりに支持を得られる、一定の支持を得ることで自らの主張の“正当性”を確保しよう、そういう戦略を採っていると考えられるわけです。

「つくる会」があくまでも一般向けの影響力を確保しようと動いているのに、それに対する反論が純然たる学術論文では、やや不親切という印象は否めません。
そもそもこの論文の存在に気づくまでが大変ですし・・・(^^;
そこで、僭越ながら外村論文の概要を以下にまとめてみることにします。

--------
【はじめに】
 歴史研究における「朝鮮人強制連行」(以下、「強制連行」)の整理と検討という問題設定

【1、 朝鮮人戦時動員の諸形態と「朝鮮人強制連行」の概念規定】
 「つくる会」は「強制連行」の定義の“不統一”を問題にしているが、定義のコアの部分が共有されていれば議論上問題にならない。研究者の執筆になる歴史事典等の記述内容を見ても、1939年以降の朝鮮人動員(「募集」「官斡旋」「徴用」などの形態を包括する)を一貫して「強制連行」と呼ぶという“共通認識”が確認できる。

【2、 国民徴用令の適用による動員とそれ以外の動員の同質性と異質性】
 「つくる会」は「徴用」と「募集」「官斡旋」を区別して前者のみを「強制連行」に相当すると解釈しているが、6.で確認するように「募集」「官斡旋」の場合も公権力による「強制」が働いている。また曲がりなりにも国家が責任を負う「徴用」に比べ、それ以外のケースはむしろ動員される朝鮮人にとってより深刻な状況を強いるものであったと考えられる。

【3、「59年外務省見解」と「03年外相答弁」の問題点】
 「強制連行」否定論の根拠の一つとなっている政府見解の内容を整理し、その問題点を指摘、「強制連行」の有無を判断する根拠としては不十分なものであることを確認する。

【4、「強制連行」概念を混乱させているのは誰か?】
 北朝鮮が「840万人強制連行」を主張しているという言説に対して、北朝鮮の「840万人」は「朝鮮の人々を軍人や労働者として強制的に徴発した」人数であること、川口外相の答弁などでも同様に述べられているのに、それを日本への“奴隷狩り”と曲解しているのはむしろ「つくる会」側であることを示している。

【5、戦後日本における「朝鮮人強制連行」の用語の成立の背景】
 「つくる会」が「強制連行」の用語は「戦後になってから日本を糾弾するための政治的な意味合いをもって造語された」と主張していることに対し、この用語の普及に一役買った朴慶植が「強制連行」の研究に着手する経緯とその真意を紹介し、「つくる会」の主張が的はずれであることを述べる。

【6、史料を通じて見た「朝鮮人強制連行」の実態】
 「強制連行」の実態について、同時代史料に依拠してその実態を検討する。「募集」や「官斡旋」と言いながら、現地においては行政機関が直接関与しており、その「強制」性は明らかである。物理的・暴力的に朝鮮人の「連行」がしばしば行われていたと共に、労務に従事する朝鮮人たちへの扱いも全く人権を無視したものであることが確認される。

【おわりに】
 以上の検討を踏まえて、「つくる会」の「日本政府が第二次大戦中、「強制連行」を指令した文書をお示しいただきたい」(前述公開質問状第二条)という要求が「強制連行」の是非を議論する際意味をなさないことを確認し、その上で今後の研究の展望を述べる。

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あ〜、つかれた(苦笑)。

これだけ重厚な論文を見せられると、自力で反証を挙げようと思っていたことの無謀さが身にしみますね。
まあ、この手の問題で誰もが専門家になる必要などないのです。
最低、専門家の意見を見つけ出して論理的に読み解く力があれば、何とかなるのですね。
興味をお持ちの方、あるいはよっぽど暇な方(爆)は、論文の本文もお読みいただければと思います。

まさか、ここまで自明の訴訟で、「つくる会」側が勝ってしまうなんてことはないでしょうが・・・最近の日本の裁判所はちょくちょく疑問符の付く判決を出したりするので、安心はできません(^^;



最後に、こんな長ったらしい文章を全部お読みくださった方に、厚く厚く御礼を申し上げる次第です。
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by hirokira1 | 2004-08-08 19:06 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 07日
自己認識と他者認識(下)
気がつけばもうアジア杯は決勝ですか・・・。
時の流れ・・・というか、自分のサボり癖に今更ながら驚いてます(苦笑)。

さて、本題の「自己認識」と「他者認識」について。

世の中には、いろんな人がいるものです。
誰から見ても人当たりがよく、常に冷静沈着で鋭い洞察力を持ち、周りへの配慮も行き届いている・・・そんな人を見ると、ただただうらやましい限りです。
ところが、そんな人に直接話を聞いてみると、
「いやぁ、私はおっちょこちょいだし、独りよがりでつい周りが見えなくなるところがあって・・・」
などと仰ったりして、こちらが驚いてしまうことがあります。

皆さんはそういう経験、ありませんか?


その人にしてみれば、自らの至らない部分を(それが他人にとって取るに足りないものであっても)きちんと自覚して、自らの行動をよりよい方向に導こうと努めているのに過ぎないのです。
一方、そんな人に対して、この人は「おっちょこちょい」なんだ、実は「独りよがり」な人間なんだ、などと考えることはほとんど意味がないでしょう。
むしろ、そのような自分の短所を「冷静」に受け止めて前向きに生かそうとする、極めて「配慮の行き届いた」人と受け止めるのが自然です。

このように、同じ人への評価で考えても、「自己認識」と「他者認識」の間には極めて大きな隔たりがあるものです。

「自己認識」は常に直面している、そして決して逃れることのできない「自己」に対する認識です。
したがって、「自己」について持っている情報は膨大です。
しかしそれでも(もしくはそれだからこそ)「自己」については見えない部分が多く残されています。
だからこそ、より謙虚な姿勢で「自己」についての情報をかき集め、より厳しい態度で「自己認識」を改めていく必要があるのです。
同時に、「自己認識」は「自己」のあり方を改善する上で決定的な役割を果たします。
同じような性格を持っていたとしても、「自己認識」の甘い人と厳しい人とでは、行動や振る舞いはまるで違ってくるはずです。

一方、「他者認識」を語る際には、その相手についての情報を自分がほとんど持っていない、という前提を忘れてはいけません。
誰であれ、その相手との接点は限定されていて、しかもその接点はその相手の全貌の中のほんの一面に過ぎないのです。
ですから、「他者」を判断するときには「自己」に対するのとは別の意味での「謙虚さ」をもって、よりその相手を知ろうと努力する必要があります。
そして、断定的な評価を下すのは極力避けるようにするべきでしょう。
また、「他者認識」と言いながら、それは得てしてそれを持つ当人の「自己認識」が多分に反映されてしまうものです。
「他者」に対して過剰に責任を求めようとする場合、大抵はその当人の「自己認識」に問題があると考えて差し支えないでしょう。
そういう意味では、その人の「他者認識」を見ることによって、ある程度その人の「自己認識」を判断することができるとも言えます。


以上のことを踏まえて考えれば、例えば“反日感情”と“反日教育”を短絡的に結びつける向きの議論は、「自己認識」に対する態度と「他者認識」に対する態度とが倒錯していることに気づくことができると思います。
さらに言えば、過去の日本の戦争に対して「自虐史観」なる言葉を振りかざし、「日本は悪くなかった」と言わんばかりの言動を繰り返す風潮の問題点も見えてくるのではないでしょうか?

現実問題として、このような議論や言動はこれからも存在し続けるでしょう。
民主主義社会として「言論の自由」を標榜し続ける限り、これらの動きを封じ込めるわけにはいきません。
それだけに、これらの議論や言動を受け止める一般大衆がどういう心構えを持ち、どれほどの判断能力を持ち得るかが試されている、と言えるでしょう。

そう言う意味で、サッカーの試合だけでなく、社会としての成熟度でも負けたくはないものだと、切に願う次第です。
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by hirokira1 | 2004-08-07 16:38 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 04日
自己認識と他者認識(上)
現在中国にて開催中のサッカー・アジア杯で、一部の中国人による日本バッシングの過熱ぶりが物議を醸している。
日本チームの試合に関連して様々な形で表現される過剰なまでの“反日感情”に対して、日本政府が中国に抗議したという。
度を超えた行為に対しては、毅然とした態度で是正を求めるのが当然だ。
ただし、日本の側も過剰に反応して、今回の騒動を中国全体の問題に広げ、中国人全体に対する反感を煽る動きがあるようで、このような風潮には断固として反対しなければなるまい。

今回の事件に絡めて、閣僚たちから原因を中国の“反日教育”に求める発言が出てきている。
このような発言は今回の問題を中国人全体の問題に安易に拡大するもので、上記のような風潮を後押しする危険性があり、好ましくないと思う。

少なくとも、今回の問題に関わる形で表明される“反日感情”は、中国人の大多数が持つ感情や価値観をそのまま反映したものではないだろう。

今中国で起こっていることは、例えば東京新聞の以下の解説に端的に示されている。
中国政府は反日感情が極度に高まるとメディアを通じて警告するが、政権幹部らが直接呼びかけることはない。政治手段として使ってきた「愛国心」を自ら制限した場合、反感の矛先が政府自体に向けられることを最も恐れているからだ。
(参照→http://www.tokyo-np.co.jp/00/kakushin/20040804/mng_____kakushin000.shtml

政権幹部ですら(いや、この場合はだからこそですが)、“反日感情”を抑制する発言ができないのだから、いわんや一般市民をや、であろう。
インタビューに答える中国人の発言は、その大部分がいわゆる「公式見解」だと受け止めておくのが無難だろう。

このような「公式見解」が現在も幅を利かせていることをどう考えればよいか、ということについては以前の日記に書いたので、特に繰り返さない。
今回の問題について言えば、いわゆるフーリガンやそれに便乗する一部の熱狂的なファンの行動と受け止めるのが自然だと思う。
彼らが自分たちの行動を正当化する際に、中国では最も効力のある「公式見解」−反日のスローガンに便乗し、さらにそれに一部の政治団体などが便乗した、というところではないだろうか。

ひたすら騒動を追いかけ回すマスメディアの情報に踊らされて、これが中国人の大多数の意志を反映するなどと勘違いをするのは早計に過ぎるというべきだろう。

それにつけても、サッカーの試合会場やネット上の掲示板への書き込みなど、あまりに断片的な情報から中国全体を語ろうとする論調には、首をかしげざるを得ない。
逆の立場で考えてみれば、明々白々であろう。

2ちゃんねるの書き込みをつかまえて、「日本人全体の世論の閉鎖性と反中侮中運動の広がり」が主張されたとしたら?
日本人の集団買春事件をつかまえて、「日本人全体の品性の下劣さと中国に対する侮蔑意識」が主張されたとしたら?
日々繰り返される残虐な殺人事件の発生を捉えて、「日本人全体の残虐性と精神的未熟さ」が議論されたとしたら?

どれもあながちデタラメと切って捨てられないのがつらいところではあるが・・・(^^;

深い知識や理解を持たない外部の社会に対し、断片的な情報を振りかざして非難すれば、相手の社会からは「偏見に満ちた敵意」として受け止められる可能性は高い。
結果として、相互に感情を害し、関係の悪化とさらなる無理解という悪循環に陥る危険性極めて大であると言わざるを得ない。

そもそも、そのようなやり方で相手を非難するやり方は、相手の「不当な」対応と論理的には同質のものであり、結果として彼らのやり方を「正当化」するものである、ということに気づかないのだろうか?

もとよりそのような対立構造を維持・拡大したがっている連中につける薬はないだろう。
ただ、そのような目論見に一般の人々、つまり我々がうかと巻き込まれないよう、しっかりと事態を見据えていく必要がある。

その際、一つのキーワードになるのが「自己認識」と「他者認識」の違いだと思うのである。

ここから本題に入っていくはずなのだが、時間がないので続きはまた次回にということにしたい(大汗)。

ああ、書きかけのテーマが溜まってゆく・・・(苦笑)。
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by hirokira1 | 2004-08-04 21:17 | Cafesta過去ログ
2004年 07月 31日
年金と出生率について
しばらく日記の更新が滞りそうなので、お詫びの告知を出すだけのつもりでしたが、面白いコラムを見つけたので簡単に紹介しておこうと思います。

リンク集にも挙げている「萬晩報」の主筆である伴武澄氏のコラムから、前半部分を引用しておきます。。

「暑い夏の年金講座(1)−年金と出生率」
(参照→http://www.yorozubp.com/0407/040726.htm

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by hirokira1 | 2004-07-31 11:50 | Cafesta過去ログ
2004年 07月 30日
センター試験訴訟と「強制連行」(中)
前回に引き続き、いわゆるセンター試験訴訟における「強制連行」問題批判について考えてみます。

b. このような設問は、「強制連行」が間違いであることを「正しく」知っている受験生にとって一種の「踏み絵」であり、信条に反する回答を一方的に強制されることは教育の中立性を損なうばかりか、憲法が保障する思想・信条の自由をも侵害するものである。

歴史的事実としての「強制連行」の是非については次回に譲るとして、ここでは「思想・信条の自由」の侵害との関係のみ扱います。

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by hirokira1 | 2004-07-30 22:24 | Cafesta過去ログ