突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
by hirokira1
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カテゴリ:Cafesta過去ログ( 101 )
2004年 08月 31日
「公安」は誰にとって必要なのか?
『東京新聞』の次の記事について、実はサイトに掲載された日から注目していました。

「『アルカイダ関係者』で逮捕の外国人〜『シロ』でも重い風評被害」
(参照→http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040827/mng_____tokuho__000.shtml

私は以前、ここの日記でこの事件に対する事後検証報道の必要性を指摘したことがあります(今読み替えしてみると文章のつたなさに赤面しそうなので、タイトルなどは敢えて明記しません^^;)。
他のメディアがフォローしていないかどうかは未確認ですが、東京新聞がこういう記事を扱ったことに対しては納得できるような気がします。

是非この記事を踏まえた文章を書こうと思ったのですが、間をおかずに常岡浩介氏に私の思っていたことを書かれてしまいました。

「日本で一番無能な人たち」=2004年08月27日付
(参照→http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=61383&log=20040827

さらに・・・ついさっき読ませていただいたのですが、だっくすふんとさん(dachs_hund)の今日付の日記でも、この東京新聞の記事が紹介されています。
やはり、このニュースのインパクトはそれだけ強いってことでしょうか。

冒頭のURLからお読みになってもよいのですが、だっくすさんの方では記事が“全文引用”されておりますので、だっくすさんの論評ともどもお読みになることをお勧めします。


東京新聞の記事で扱われているリオネル・デュモン事件に絡めた“アルカイダ”捏造・誤逮捕事件の他に、常岡氏は「公安」の“害悪”(“失態”ではありません、念のため)について、次のように述べています。

公安調査庁は以前、ロシア対外情報局SVRに唆されて週刊文春にデマを流し、
「チェチェンゲリラ10人が日本に潜入」という虚偽の記事を書かせた。
(参照→ http://www.kavkazcenter.com/eng/article.php?id=2139
先日は、公安警察は邦人人質事件を「自作自演」であるとするデマを流し、
おつむの弱いメディアにアホウ踊りを躍らせた。
(参照→ http://www.geocities.jp/iraq_peace_maker/#mmag0406-2
こういった行動は国民の間に団結ではなく、相互の不信と憎しみを
醸造してゆく。
今、日本にある団体でもっとも精力的に売国行為に励んでいるのは、
空回りの左翼でもうすらボケの右翼でもない。
無能な情報機関だ。


イラク人質事件の「自作自演」説は、その根拠の薄弱さと相反して相当に根強いものがあり、見ていて異様なものを感じていたのですが、こういう背景があったとは・・・。

これらに比べると“害悪”の程度が小粒に感じるのが不思議ですが、もう一つ記憶に新しいところでは国松警察庁長官狙撃事件のずさんな捜査なども思い浮かびますね。
この事件の不可解さ・不条理さもあちこちで書かれているようですが、とりあえず「オウム関連」の専門家と言うことで、江川紹子氏の見解を紹介しておきます。

江川紹子ジャーナル 〜 社会のこといろいろ 〜
「この筋書きをどう読み解くか〜警察庁長官事件捜査のシナリオ〜」

(参照→http://www.egawashoko.com/menu4/contents/02_1_data_36.html

この時の逮捕の目的として、主に「警察内部の縄張り意識により、公安警察がこの事件捜査の主導権を刑事警察に渡さないため」として分析する姿勢は、極めて冷静で節度のあるものだと思います。


三省堂の「大辞林 第二版」によると、「公安」とは、
公共の安寧。国家や社会の秩序が保たれていること。

という意味だそうです。

およそ、我々が見聞きしているニュースの中で、「公安」を名乗る機関が上記の意味での「公安」に貢献している事例はほとんどない、と言わざるを得ません。
これほどまで何の役にも立たず、“害悪”ばかりまき散らしている機関が当たり前のように存在していることを、もっと多くの人が「変だ」と思わなければ、このような事件は今後も繰り返されるのではないでしょうか?

あの、日頃はまるっきりやる気を見せない“後藤さん”が、「公安」だけは目の敵にするのも、こういう構図を最初から見切っていたからなのかも知れません(←この一文、意味がわからない方はスルーでお願いします・爆)。

念のため、上記の「大辞林 第二版」をもう少しだけ引いておきます。

【公安警察】
国家の秩序維持と安全のために、反体制的運動や組織を取り締まる警察活動。
→政治警察

【公安調査庁】
1952年(昭和27)、破壊活動防止法により設けられた法務省の外局。暴力的破壊活動を行う団体の調査や解散指定の請求などを行う。その請求を審査・決定する機関として、公安審査委員会がある。


彼らにとっての「公安」が本当は誰にとって必要なのか、よくよく見極めていくことが大切です。
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by hirokira1 | 2004-08-31 23:50 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 30日
「野球の伝道師」が伝えたもの
今更ですが、日本野球の「ドリームチーム」、“長嶋ジャパン”はアテネで銅メダルを手にして日本に戻ってきました。
昨日紹介した近井氏の論評もそうですが、プロ選手だけの選抜チームとして、つまりアマチュア選手を排除して望んだ末のこの結果には、あちこちから厳しい評価が出されているようです。
一方で、まるで強迫観念のように“美談”として扱い続けるマスメディアの報道も後を絶たないようで・・・(こちらは、もうすぐ打ち止めかな?)。

このプロ選抜チームを形容する表現として飛び交った様々なコピーの中でも、特に興味深く、不思議な魅力と危うさを兼ね備えているのが、タイトルにも挙げた「野球の伝道師」という言葉です。
ところが、この言葉の使い方を見ていると、いくつかの意味が時として混同されて用いられることがあるようです。

ひとまず、目についた「意味」を私なりに整理してみましょう。

(1)選手たちが五輪の試合の中で得た経験を自らのチームに持ち帰り、プロ野球界の今後のあり方に反映させていく。

(2)選手たちが五輪の試合の中で得た経験を日本に持ち帰り、将来の野球界を担うであろう子供たちに身をもって伝えていく。

(3)選手たちが五輪の試合の中で「日本の野球」の素晴らしさをプレイを通じて体現し、「野球」の素晴らしさを広く海外に知らしめる。


(1)と(2)については重複する部分が多いのですが、一応区別して考えることにします。

長嶋茂雄氏のコメントを見ると、時としてこれらが混在している場合がありますが、基本的には「若い選手を多く選んだのは、伝道師になってほしいと思ったから」という言葉に見られるように、どちらかというと将来にわたって時間をかけて伝えていく(1)(2)の意味に重点が置かれているようです。

もっとも、将来的な五輪競技としての不安から「野球の素晴らしさを世界の人々にアピールしたい」とも述べているようですから、(3)の意味も言外に込められているとみなしてよいでしょう。

以上のことを踏まえて、今回の「野球の伝道師」が何を伝えたのかを考えてみますと・・・。

(1)(2)については、日本に戻ってきたこれからが本番になります。これらの意味で真に「伝道師」としての評価ができるのは10年後、20年後になるのかも知れません。
一方(3)の方は、現時点で既にある程度の答えが出ています。しかしながら、この意味において「伝道師」としての役割がどこまで果たせたのか、検証しようとするメディアはまだ出てきていないようです。

私が見た限りで一番それに近いと思われる論評を紹介しておきます。

「長嶋ジャパンに課せられたもう一つの使命とは?〜アテネ五輪野球・3位決定戦・カナダ戦」(文=杉山桂介)
(参照→http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/jpn/athens/column/200408/at00002206.html

 今回の代表には2つの使命があった。一つはもちろん五輪で金メダルを取り、日の丸を掲げること。残念ながら、これはかなわなかった。そしてもう一つは、長嶋監督、そして中畑ヘッドコーチも言うように、「野球の伝道師になる」ことである。

 今回の五輪、日本の野球は高い評価を受けていた。準決勝で敗れはしたものの、「日本の野球が一番完成されていた」(関係者)という。観客や対戦相手国を魅了したのはもちろん、視察に来ていたメジャーのスカウトの目にも、日本の選手のプレーが映っていた。
 ち密な野球に、豪快なバッティング、気迫あふれるプレーなど、どれを取っても、世界に恥じない「ジャパンの野球」を立派に体現したことは、大きく評価できよう。

・・・(後略)・・・


もちろん現地での取材活動を踏まえた評価なのでしょうが、読む限りではどうしても「我田引水」的自己満足では?という疑念を拭うことが出来ません。
ただ、そうした評価を無条件に受け入れたとしても、この程度のことではとても「伝道師」としての役割を果たしたとは言えないでしょう。
「ジャパンの野球」を評価した「関係者」「対戦相手国」「メジャーのスカウト」・・・これらの人々は、「伝道」するまでもなく「野球」の素晴らしさを既によく知っている人たちです。

唯一期待が持てるのが「観客」ですが、こちらも野球のルールの難解さなどがあって、まだまだ問題山積のようです。
観客席から五輪野球の雰囲気を伝えてくれる記事として、取りあえず次のものを挙げておきます。

「二宮清純の「視点」 : 「フォア・ザ・フラッグ」 〜長嶋ジャパンの“もう1つの使命”〜」
(参照→http://www.ninomiyasports.com/xoops/modules/news/article.php?storyid=2659

五輪が終わったらそれっきり、では「伝道師」の役割を果たしたとは言えません。今後の地道で継続的な交流の積み重ねがなければ、一時のあだ花に終わってしまう可能性が高いでしょう。


もう一つ、「伝道師」という考え方の“落とし穴”についても触れておきます。
「伝道師」、より宗教に即した表現をするならば「宣教師」ということになるのでしょうが、彼らの活動は歴史を振り返ってみると、必ずしも好ましいとは言い難いものでした。
何故かと言えば、彼らは伝えるべき「道」「教」などの価値観を絶対のものとして受け入れており、往々にして現地の都合にお構いなく、一方的にその価値観を押しつけてしまいがちだからです。
ある意味、「自由と正義の伝道師」としてイラクに乗り込んだブッシュ=アメリカが、その弊害を余すところなく表現しきっているとも言えそうですが・・・。

『ウィキペディア(Wikipedia)』の「伝道師」の項目には、奇しくも
2.転じて、他人に何事かを、(聞き手の意思に関わりなく)熱心に勧める(煩わしい)人。

という意味が書かれています。

少なくとも(3)の意味で「伝道師」という言葉を正しく用いるのなら、この場合聞き手に相当する「観客」の視点をもっと大切にすることが必要です。
そういう観点から見ると、今のところほとんどの日本のメディアはその最低限の責務を果たしているとは言えないでしょう。

そう考えると、「野球の伝道師」も「自衛隊の国際貢献」も、問題となっている構造は案外似ているのかも知れません。


もっとも、「伝道師」の意味を(1)(2)に限定して考えるとしても、「金以上の「銅」」だの「有終の「銅」」だのとはやし立てて、“敗北”という現実を直視しようとしなければ、やはりその評価も厳しくならざるを得ません。

「現実を直視する」というのも、案外難しいことのようです。

【8/31 22:35 追記】
アテネ五輪での野球に対する客観的評価は、予想以上に厳しいようです。
次回以降の五輪競技見直しへの動きに関連して、次のようなニュースを見つけました。

「存続厳しい野球、ソフトボール」
(参照→http://athens2004.nikkansports.com/f-ol-tp0-040830-0030.html

 アテネ五輪の競技会場では、国際オリンピック委員会(IOC)プログラム委員会の14人のメンバーが、28競技を分担してそれぞれの実施状況に目を光らせた。IOCは来年7月の総会(シンガポール)で、五輪実施競技を見直す方針を固めている。その際の判断材料となる報告書をまとめるためだ。

・・・(中略)・・・

 欧州でなじみの薄い野球、ソフトボールにとって、アテネでの開催は逆風だった。地元ギリシャの人々の関心は薄く、地中海の強烈な日差しにさらされるスタンドが満員になることはなかった。野球の本家、米国は米大陸予選で敗れて出場できず、プロ野球選手で固めた日本の「ドリームチーム」は準決勝で敗れた。

 野球を視察したプログラム委員は「試合時間が長いのが何よりの問題。大会後、このスタジアムを使って地元で野球を普及させようという姿勢も感じられなかった」と厳しい評価だった。

・・・(後略)・・・

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by hirokira1 | 2004-08-30 00:25 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 28日
頑張ってるねぇ、じっちゃん!
ネット上で調べ物をしていると、思わぬ発見をすることが少なくありません。
今日も、そんな“発見”からの報告です。

「昭和ひとけた生まれから〜あと1000本のメッセージ」
(参照→http://www2.oninet.ne.jp/hchk/index.html

このサイトの管理人の近井氏は、1932年生まれの元高校社会科教師だそうで、退職後も忙しい生活の中、「このサイトで1000本のメッセージを書くことを本業と考えている」とのこと。
2001年12月から書き始めた「メッセージ」は、今日現在で既に584本を数えるまでになっています。

「ここの日記、何本だったっけ?」と考えるまでもなく、とてもこんなになるまで続けることは出来ないと、前もって断言しておきます(苦笑)。


ひとまず最近の「メッセージ」から、一つだけ紹介しておきましょうか。

「オリンピックは時代を映す鏡」
(参照→http://www2.oninet.ne.jp/hchk/olympic-583.html

・・・(前略)・・・

 体操男子の団体優勝はグレイトでした。素人目にも昔と比べて超難度の技の連続でした。これを達成したのは合理的な強化策です。科学的な分析、先端技術によるサポート、資金を惜しまず、準備に最善を尽くす。

 体操だけではなく、水泳の北島康介選手を支えた支援チーム、谷亮子さんの要望はすべて容れて、練習パートナーから競技場の応援団まで手配したといわれるトヨタ、中国南部での高地合宿やスイス合宿で起伏の激しいコースに備えたマラソンの野口みずきさん。今やオリンピックはこうでなければ勝てない。個人種目といっても個人の能力や努力、気力だけでは戦えない、サポートする組織が万全でなければ苦しい、ということのようです。


 この観点からすると、逆説的ですが、プロで固めた野球チームが「アマチュア」的に見えてしまいます。たしかに選手たちは野球を日常の仕事にしているプロ、それも一流のプロです。しかしこのチームはオリンピックに照準を合わせた準備をどれだけやったでしょうか。
 「長嶋ジャパン」の呼び名、栄光の背番号3の威力、「For the Flag!」のスローガン、このようなものに頼らざるを得ない「精神主義」は、サポート体制の欠陥を浮き彫りにして見せます。プロ野球本体の「シーズン」への支障を最小限にすることが優先された「オリンピック・チーム」の編成。近鉄・オリックス合併問題に端を発して、パ・リーグそのものが消滅の危機にあるというのに、なんともちぐはぐな目先に捉われた対応です。オリンピックで金メダルを逃すことがプロ野球人気にどれだけダメージとなるか、その計算すら出来ていなかったのでしょうか。

・・・(後略)・・・


「有終の「銅」」、あるいは「「金」以上の価値」などと無理矢理賞賛しようとする報道の中、ちゃんと見るべきところを見てますね。
「昭和ひとけた」と言いながら(この言葉を聞くと、どうしても銭形警部をイメージしてしまうのですよね・笑)、それぞれの「メッセージ」から見受けられる感性は、随分とお若いような気がします。

せっせとお書きになった「メッセージ」、残念ながら昔のものはアップされていないのですが、それでも全部読むのは随分大変そうです。
既に「勝手にレビュー」モードですが、まあそっちの方は一通り読んでから、また改めてやってみたいと思っています。

ちなみに、「1000本のメッセージ」とのことですが、今のペースだとあと2年以内には達成できそうです。
どうやら、「続・1000本のメッセージ」「続々・1000本のメッセージ」にも期待が持てそうです。

老人パワー、恐るべし!!
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by hirokira1 | 2004-08-28 23:42 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 27日
ネットゲームの「南北問題」
HotWired Japanの日本語訳ニュースとして、次のような記事が掲載されているのを見つけました。

「オンラインゲームのアイテム収集に「下請け労働者」が出現」
(参照→http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/culture/story/20040826203.html

たかがゲームということなかれ。ひとまず冒頭部分を引用してみましょう。

欧米では近ごろ、ゲーマーたちでさえ、単調で骨の折れる作業を中国やロシアといった他の地域に下請けに出している。

 多人数同時参加型オンラインゲーム(MMOG)の世界では、以前から、実際にプレイして入手しようと思えば何時間もかかるゲーム内の仮想アイテムを、現実世界のお金を払って購入するという近道が使われている。そのため、余分なアイテムや、もうやめてしまったゲームで使っていたキャラクターを売り出して、オフラインの収入源にする人さえいるほどだ。

 ところが最近、為替レートや国家間の収入格差という現実によって、豊かな国と貧しい国という現実世界の関係が、バーチャル世界にまで反映されつつある。富裕な国のプレイヤーたちが、ゲーム内でより有利なポジションを手に入れたり、ゲームの単調で退屈な部分を抜け出すためだけに気軽に数百ドルを支払う一方で、貧しい国の一部の人々が、ゲームを一日中プレイしてゲーム内の仮想通貨やアイテムを集め、現実の金銭を稼いでいるのだ。

 彼らはいわば「通貨稼ぎのゲーム労働者」で、稼いだゲーム通貨やアイテムを企業に売っている。そして企業はこれらのアイテムを、お金を出してでも手に入れたいというプレイヤーたちに提供している。


日本でもネットゲームに関連してゲーム上の“特典”がネットオークションなどで売買されているという話はよく聞きますが、「貧しい国」との所得格差を利用して企業による営利活動が展開されている、というのは私も初耳でした。

しかし、問題はここからです。

 欧米のプレイヤーの多くは、IGE社、あるいは『イーベイ』などのオークションサイトから、通貨その他のアイテムを気軽に購入している。だが一方で、生活のためにゲームを「プレイ」する人々のことを快く思わないゲーマーもいる。

 「彼らは他のプレイヤーとゲームを共有する態度に欠け、金儲けのために不当にゲームを占拠している」と、ハワイ州在住のシステム統合コンサルタントで『ファイナルファンタジーXI(スクリーンショット)』のプレイヤーでもあるジェイソン・ラム氏は話す。ラム氏は、仮想通貨の売買をするのはかまわないが、フルタイムのゲーム労働者たちのプレイ方法には問題を感じるという。

 「こうした人々は、ゲーム内の通貨を得るために、つねに特定の操作を行なっている。すると、他のプレイヤーはその操作ができなくなってしまう……。(しかも)彼らには他のゲーマーと交流しようという気がほとんどない」とラム氏。


別にラム氏の見解にけちをつけるつもりはありませんが、一般的な認識の問題として、「仮想通貨の売買」を認めるということと「フルタイムのゲーム労働者」に“楽しむためのプレイスタイル”を要求するということはそもそも矛盾しているような気がします。

「特定の操作」を独占するために他のプレイヤーが閉め出されるという現象も、他のゲーマーと交流する気がないという態度も、実は「フルタイムのゲーム労働者」だけでなく、その対極にある「フルタイムのゲーム“貴族”」にも同様に見受けられる傾向であるということを踏まえて次の一節を読むと、この“いびつな構造”が見えてくるのではないでしょうか?

 このようなやり方は、金銭のためにプレイする労働者たちに現実世界での利益をもたらしているかもしれないが、ゲーム世界では逆に不利益をもたらしている。同じくファイナルファンタジーXIのプレイヤーであるジョン・マーフィー氏によれば、一部のゲーマーが通貨稼ぎの労働者たちを追い出しにかかっているという。

 「何人かのプレイヤーが仲間を集めて、こうした人々の邪魔をしている」とマーフィー氏は話す。大勢のプレイヤーが集団になって、ゲーム労働者が通貨を稼ぐのを妨害するのだ――中には、不快なキャラクターを「殺す」場合もあるという。「こうしたギル転売屋たちのところに、たくさんのモンスターを連れてきて襲わせるのだ」

 しかし、それでゲーム労働者たちが引き下がったわけではない。


「ゲーム労働者」が「ゲーム世界」での利益を問題にしているとは、到底思えないのですが・・・。

当たり前にネットゲームをプレイしている多くの人々にとって、金銭のために“身勝手な”プレイをするプレイヤーの存在は確かに不愉快なもので、せっかくのゲームの楽しさを半減させるものなのかも知れません。
しかし彼らをゲームに呼び込んだそもそもの原因は、ゲームの中での優位性を金銭によって獲得しようとする、一部の“富裕”ゲーマー(?)の存在なのです。

「ゲーム労働者」ほど目につく存在ではないにせよ、ある程度ゲームをやり込めば、誰が“金で地位を手に入れた”プレイヤーであるかは、大体わかるものです。
けれどもほとんどの場合、他のプレイヤーの不満がこうした人たちに直接向けられることはありません。
なぜでしょうか?

少なくともゲームの世界では、こうした人たちの方が“強い”からという以外に、私には答えが思いつきません。

生活のことを気にせずひたすらゲームに時間をつぎ込める「ゲーム“貴族”」もそうですが、彼らが時間や金銭をゲームに注ぎ込むことによって得た“優位性”を覆すのは容易なことではありません。
一方、どんなにゲームに時間を注ぎ込んでも、その努力が“賃金”に変換されることによって、ゲーム世界では永遠に“優位性”を得ることのない「ゲーム労働者」たちは、こうした構造に不満を抱くプレイヤーたちにとっては格好のターゲットになります。

つまるところ、「ゲーム労働者」のプレイスタイルを口実に、公然と“弱い者いじめ”をしているに過ぎないのです。

「たかがゲームに何熱くなってるんだ?」と思われるかも知れませんが、こうした構造は、現実世界と比べても嫌気が指すくらい“瓜二つ”のものです。
“富める者”の欲望を満たすためにひたすら働く“貧しい者”。
“富める者”の矛盾を一身に引き受けざるを得ない“貧しい者”。
「たかがゲーム」であるだけに、この構造は現実世界以上に露骨で醜いものです。

さらに言うならば、現実世界における“貧しい者”の労働は、たとえそれがどんなにいびつなものであろうとも、何らかの「生産」行為を通じて自らの社会構築に多少なりとも寄与することができます。
しかしゲームの中でのこのような労働は、何も生み出しません。
“富める者”の欲望が別の方向に向かってしまえば、彼らは一斉に職を失い、またゼロからやりなおさなければならないのです。

以前、私はインターネットという道具のことを、価値観や認識の「拡大鏡」であると表現したことがあります。
ネットゲームについても、同様のことが言えるようです。
ただ残念なことに、ネットゲームの「拡大鏡」としての機能は、専ら現実世界の負の側面のみを過剰に「拡大」しているように思えてなりません。

私は決して、ネットゲームの持つコミュニケーションの広がりと可能性を否定するものではありません。
ただ、どのような人でも同じように“平等な存在”としてネット・コミュニケーションに参加できる環境が必要なのだと、改めて痛感した次第です。
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by hirokira1 | 2004-08-27 21:05 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 25日
ちゃんと見ている人を探そう!
リンク集に挙げ、また「リンク先勝手にレビュー」でも紹介した「こんなメディアでした」(以下、「こんメディ」)で、約3ヶ月ぶりに新作コラムがアップされました。

このサイト、最近はめっきり更新のペースが落ちてますから、新作を見つけたというだけでもスクープと言えるかも知れません(笑)。

今回のコラムも、オリンピックという時事ネタを基点にして、相当に奥の深い話を展開しておりますので、まずは簡単に紹介してみたいと思います。

「「ためぐち」の二人〜『アテネオリンピック』の気になるキャスター 」
(参照→http://homepage.mac.com/konmedi/2004_08_23.html

まず前ふりとして、「Yoshinari's Homepage」というサイトの、「敬語について」というページから、敬語についての考察が要約の形で紹介されています。
この話のきっかけがNHKの『真剣10代しゃべり場』で、これについては「こんメディ」の主(←サイトの管理人さんのことです)も私も以前書いたことがあるのですが、まあそれはさておいて。

ここでは「こんメディ」の主の要約をさらにまとめる形で、Yoshinari氏の所説を紹介しておきます。

    ----以下、要約の要約----
 なぜ私たちは敬語を使うのだろうか?
 例えば一般的に家族や友達相手には敬語を使わない。
 それは、相手に敬意を持たないからではなく、敬語を使わないことが“親しみの表現”になるからだ。
 一方、現実には偉い人だけでなく、偉くないかも知れない初対面の人などに対しても敬語を使う。
 つまり、敬語を使うのは敬意を持つべき相手か否かとは直接関係がない。
 敬語を使うということは、単に“尊敬を示す”というだけのものではなくて、むしろ“謙虚さの表明”なのではないか。
 そして、そんな敬語を使う背景には、“謙虚” という日本文化の尊重があるのではないか。
    ----以上、要約の要約----


これを読んで「要約の要約なんて、本当に元の趣旨を伝えているの?」と訝ったあなた。

あなたは全く正しいです(爆)。

そんなあなたのために、もともとのページのURLも紹介しておきます。
Yoshinari's Homepage〜「敬語について」
(参照→http://www008.upp.so-net.ne.jp/yoshina/column/04/Keigo.html


「こんメディ」の主による紹介の最後は、次のような言葉で締めくくられています。

謙虚でなくてもいいが、そうであればあるほど、絶対的な実力を持っていないと他人には認められない。
だが、他人に好まれるのは、同じ実力であれば謙虚な人のほう。

けだし至言である。


ここまでだけでも十分読んだ甲斐があるというものですが、これはあくまでも前ふり。本題はここからはじまるのです(笑)。

本題の方はかいつまんで紹介しますと(爆)、この度のアテネ五輪の中継で相手かまわず「ためぐち」を炸裂させつづける小倉智昭氏の言動の本質を、小倉氏と同じように遠慮も謙虚さも見せずに一般家庭に乱入し「ためぐち」を押し通すヨネスケ氏との比較から浮き彫りにする、という話になっています。
詳しくは是非、冒頭で紹介したURLを辿ってお読みください。

「こんメディ」の主が小倉氏をヤリ玉に挙げていることそれ自体は、まあ前からのことなのである意味自然な展開だと思います。
もっとも、このサイトでは他にも「国民的アイドル」とか「国民的スター選手」とか、あるいは「世界的音楽家」とかがヤリ玉に挙げられてきていますから、むしろ小倉氏にとっては光栄なことかも知れません(←ジョークです・念のため)。

ただ、これを読んで改めて驚いたのは、小倉氏を徹底的に“嫌っている”はずの「こんメディ」の主が、かようなまでに小倉氏の言動をつぶさに「見ている」ということです。

本文の中で列挙されている小倉氏の“言動”の数々を見ていると、執念を通り越して、ある種の“愛情”すら感じられるのが不思議です(苦笑)。

また、それと対比して語られるヨネスケ氏の言動についての記述も、極めて具体的で本質を突いているように感じられます。
単にヨネスケ氏が何を言ってるかだけではなく、相手の一般人に対してどのようなスタンスで語っているのかということにも、十分に注意を払っています。
私も小倉氏の言動やヨネスケ氏のコーナーは時々目にすることがありますが、とてもそこまで注意して見ることはありません。

このような「敬語」と「ためぐち」に注目して見た「相互関係」の分析を「こんメディ」の主が提示したのは、あるいは例えば日中関係に見られるような“いびつな”相互関係のあり方に対する一つの見識を示したかったからなのかも知れませんね・・・この解釈はさすがに邪推が過ぎるかも知れませんが。


さて、「こんメディ」の主が紹介した「Yoshinari's Homepage」には、いろいろなコラムが掲載されています。
その中で、また興味深い指摘を発見することができました。私を含めあちこちで取り上げられた「アジアカップ」ネタなのですが、核心部分を引用しておきます。

「アジアカップ・ブーイング騒動とマスコミ」
(参照→http://www008.upp.so-net.ne.jp/yoshina/column/04/AsiaCupBooing.html

今回、僕が最も不快だったのは、アジアカップグループリーグ初戦から明らかに存在していた国歌中のブーイングや、反日行動を、当初マスコミが一切報道しなかったことです。そして、三戦目に日本代表監督のジーコが 「国歌演奏中のブーイングはマナー違反」 と発言した途端に、これらの報道を一斉に始めたことです。
実際、初戦と第二戦の中継でテレビ局は 「中東のチームは人気がある」、「中国のサポーターは弱い方を応援」 などのコメントをしました。(僕は事実が知りたくて TV 2台並べて見たので、NHK だったかテレビ朝日だったか、どちらだったかは忘れましたが。) これって、明らかに捏造です。結果的に報道したくない事実を説明するためにマスコミが TV中継で堂々と捏造しているわけです。
さらに、一度ブーイング報道がはじまると、全てのマスコミが一斉に報道を始めます。今度は過剰ではないかというくらい。これを見て僕がイメージしたのは、教室のイジメの構図です。イジメをはじめると、一緒に参加しないと仲間でいられないような感じ。一貫してブーイングを無視する局があってもいいのに。

もし、日本代表が予選リーグで敗退し、3試合だけで終了してしまっていたら? ジーコが何も発言していなかったら? もしかしたら、今回の反日ブーイングの報道は全くされなかった可能性すらだってあるのです。
ワールドカップの時の韓国国内の様子の報道も、明らかに十分な事実ではない偏った報道が行われました。今回も全く同じです。我々が北朝鮮のマスコミを見て感じる胡散臭さ。でも結局日本のマスコミも五十歩百歩ということになります。


マスメディアを含めあれだけ大騒ぎした割に、こういう冷静な指摘はほとんど目にしなかっただけに、まさに「目から鱗が落ちる」気分になりました。
Yoshinari氏のサイトにはスポーツ関係のコラムが多いので、純粋に「サッカーが好き」で予選から「見ていた」ゆえに気づいた点なのでしょう。
逆に言うと、あの時大騒ぎした人々の中で、本当の「サッカーファン」ってどれくらいいたのだろうか・・・正直、疑問に思えてきます。

マスメディアに限らず、見せたくないもの、見せると面倒だと思えるものを隠してしまう、そういうことはよくあることなのだと思います。
今回の中国批判の中でも、中国メディアに対するものが少なくなかったようですが、メディアの問題を安易に「政治」や「感情」に結びつけるよりは、むしろこういう“一般的な”問題として捉えた方が実態に近いはずです。

今回の件について言えば、今までメディアの作為もあって「隠されてきた実態」が突然突きつけられたわけで、それを受け止める準備の無い多くの日本人は「拒絶反応」を示さざるを得なかった、という一面もあるように思えます。
それでも、こういうことが起きたおかげで中国の「実態」の一部に触れることができた、というのはそれ以前に比べれば明らかに“一歩前進”なのではないでしょうか?
長い目で見れば、相互理解を深め、相互関係をよりよいものにする過程では必然の事件だった、と言えるかも知れません。


こうして見ると、私の日記ってつくづく「ちゃんと見ている人」のおかげで成り立っているんだなぁ・・・と思います。
「こんメディ」の主しかり、Yoshinari氏しかり、一昨日の常岡氏しかり・・・。

私個人について言えば、昨日の日記でおわかりのように、どちらかと言えば「ちゃんと見ていない人」の方に属するのではないかと思っています。
率直に言えば、自分個人の直接的見聞と知識では、ろくなことは書けない人間です。

でも、そんな人間でもネットの力を借りれば、「ちゃんと見ている人」の見識を借りて、それに共感することで、それなりの文章は書けるのですね。
ただただ、本当にただただ、そんな人たちに感謝しています。

そんな「ちゃんと見ている人」たちとネットを通じて出会い、その出会いと感動にちょっぴり自分なりのスパイスを添えて紹介すること、それこそが私の日記の原点なのかも知れないと、改めて気がついた次第です。
皆さんも、もし「ちゃんと見ている人」を見つけたら、紹介してくださいね。


・・・てなわけで、またしても長文になってしまいました。
ちゃんと読んでくださった方、本当にありがとうございました。
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by hirokira1 | 2004-08-25 20:42 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 24日
いつでもどこでもつながるって・・・
今日は大ネタを振る余裕がないので、お蔵入りになりかけたしょーもないネタを書いておきます。





それは・・・






Yahoo!BBの「がんばれ!ニッポン!」CM。


最近、福原愛選手編と室伏広治選手編を立て続けに見て、「おおっ、こんなのがあったのか・・・」。

「今頃気づくな〜〜〜」という声も聞こえそうですが・・・(^^;

私並みの“時代遅れ”な人々のために、関係のプレスリリース記事を紹介しておきますね。

ヤフーBB“がんばれ!ニッポン!”TV-CM「愛ちゃんとつながろう。」篇
(参照→http://www.softbankbb.co.jp/press/2004/p0716.html




ええ、ええ、一月以上前から流れてたのに、まるで気づかなかったのは、他ならぬ私ですよ・・・。

まあ、それだけ忙しかったのね、ということでご勘弁を(苦笑)。


で、反響はネット上でもあちこちで出てますし、もしかしたらCafestaでも書かれているのかも知れませんが・・・。




私の感想はと言えば、たった一言。


「あっ、危な・・・」


どう見ても、一般人がオリンピック選手と突然赤い線(=ネット回線ですね)でつなげられて、振り回されているとしか見えませんでした。

室伏選手編なんて、赤い線がハンマーとからまるんじゃないかと、気が気じゃなかったですし(笑)。

「いつでもどこでもつながる」って、随分迷惑だなぁ・・・と、考えさせられてしまいました。



もっとも、そういう「いつでもどこでもつながる」ことの危険性をたったの15秒でここまで的確に表現してみせた、という点では、極めて秀逸なCMと言えるのかも知れません。

そういう意味では、これってやっぱり社会カテゴリのネタなのですね(爆)。

これに続けて、やれ「ユビキダス社会の問題点は・・・」とか「住基ネットに対しては・・・」とか書けば、いつもの私の日記になるんですけどね(苦笑)。

ま、今日はやめときます。


一人くらい、私並みの“テレビ縄文人”がいるとうれしいのですが(←いや、見てはいたのですよ、見ては・・・)。
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by hirokira1 | 2004-08-24 22:25 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 23日
「意識の落差」を埋めるには
今日、常岡浩介氏の日記でこんなのを見つけました。

「カルチュラル・ギャップ」(その1)(その2)=8月21日付
(参照→http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=61383&log=20040821

話は「日本唯一(?)のチェチェンからの留学生」、ティムールに常岡氏自身が書いたチェチェン関係の記事を見せたところから始まります。

初め、ティムールの変化に気付かなかった。
Aちゃんがティムールが涙を流しているのに気付いて、
「どうしたの?」と声を掛けた。
「なんでもない」とティムールはいって、「散歩してくる」と
家を出て行った。

彼が戻ってくると、私は彼に、99年にグロズヌィで撮影したVTRを見せた。
観終わると、ティムールはいった。
「どうしてPLAYBOYに記事を書いたの?」
ようやく私は理解した。
ヌードが掲載されている雑誌に、チェチェンの記事が掲載されたことに、
ティムールはイスラム教徒として憤ったのだ。
「他の雑誌はチェチェンに関心を持たなかったからだよ」
実際のところ、関心を持つ、持たない以前に、日本のメディアの
対イスラム感情は非常に偏狭だ。

強い信仰心に対して肯定的な感情を持つメディアは滅多にない。
そういう中で、少なくとも米国の雑誌PLAYBOYは、
米国内にいるイスラム人口との関わりの中で、
異なった宗教を信じる人たちに対する常識的な振る舞いとは
どういうものかを最低限理解できている。
逆にいうと、それ以外の新聞雑誌はほぼことごとく、政治的に右だとか、
左だとかいう以前に、最低限の基礎知識と、わきまえるべき常識に
欠けている。

もっとも、私個人はそれを非難できることだとは思っていない。
日本と朝鮮半島は世界でもっともイスラム教徒人口比率が低く、
判断の材料を与えられてこなかった民族なのだから。
しかし、予備知識もなく、イスラム教徒が普通に理解されるだろうと信じて
来日したティムールには、自分に対して親切な支援者たち自身にも、
イスラムに対してはなんら理解をもっていないことに気付くとき、
戸惑うだろう。

「いずれにせよ」
と、ティムールはいった。
「他のチェチェン人には、その記事を見せない方がいい。
みんなショックを受けるから」
「そうだね。そうするよ」と、私は答えた。

・・・(中略)・・・

思い込みは、誰を友人とし、誰を敵とすべきかの判断を曇らせる。
間違った判断はしばしば、イスラム世界を自ら堕落させ、
本来友人となるべき人々が無意味に敵対してしまう。
そして、イスラム世界にPLAYBOYどころでない恥知らずで
不名誉な歴史を作っていってしまう。

それでも、日本人に早急なイスラムへの認識変更を求められないのと
同様に、私はイスラム教徒にも同じような要求をするわけにゆかない
と感じている。
そもそも、神さまの前に立つのに男女を物理的に隔離するなど、
これほど破廉恥な行為があろうか?
現在、世界のほとんどのモスクは男女がともに礼拝することを禁じている。
クルアーンには男女を隔離すべきとは書いていない。
それは捏造された神の教えだ。


邪推かも知れませんが、この時常岡氏はある種の挫折感を味わったのではないでしょうか?
チェチェンというフィールドを大事にする彼の活動は、少なくとも日本人の大多数にはまともに評価されていないと言わざるを得ません。
ティムールのような、日本で暮らすチェチェン人にとって、自分の仕事はどういう意味を持つだろう・・・そんな思いは、『PLAYBOY』に対するティムールのイスラム教徒としての“価値判断”の前に門前払いされてしまうのです。

そんな“冷たい”現実を、常岡氏は自分なりに精一杯に受け止め、理解しようとしています。
後半部分などは「イスラームに改宗した日本人ジャーナリスト」だからこそ書ける文章かな、とも思いますが、不必要に一方を美化することもなく、公平かつ冷静な論評になっていると思います。


最近似たようなテーマで、理屈張った文章を書いてしまった身としては、こういう書き方ができないものかと、密かにあこがれたりするのですが・・・(苦笑)。

イスラーム世界ほど価値観に落差があるわけでもない隣人に対しても、やたらと「理解してもらえない」ことに苛立ったり、その反対に身勝手な「偏見」を押しつけたりする日本の現状を見るにつけ、こういう意見がもっと脚光を浴びるようになることをひたすら願う次第です。

「ギャルギャル日記」もいいけれど、こういうのを見つけると、毎日チェックしていた甲斐があったと心から思いますね(笑)。
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by hirokira1 | 2004-08-23 21:35 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 22日
イラク人質をめぐるパウエル発言の“真意”
昨日の日記について、だっくすさんより阿蘇地☆曳人さん(ID:paris1871)の日記を参照するようにとの助言をいただきました。
私も以前一読した記憶があるだけに、うっかりしていたお詫びも兼ねて、簡単に紹介しておくことにします。

「自衛隊に追い出されるNPO」(2011/11/11付日記)
イラクへの自衛隊派兵決定と共に、それまでイラクでの人道支援を担ってきたNGOに対して外務省からの追加援助が打ち切られたため、資金難からNGOが撤退を余儀なくされるという「不条理」が具体的に紹介されています。

イラクにおける自衛隊の「人道支援」が如何に身勝手で役に立たないものか、これだけ読んでも判断できるでしょう。
関心をお持ちの方には必読かと思われます。


以下、阿蘇地さんの日記では触れられてない部分で私が気になっている点について、補足したいと思います。



昨日の日記でも少しだけ触れましたが、4月のイラク人質事件とそれに関連した「自己責任」論の嵐の中で、アメリカのパウエル国務長官がイラク人質に言及したいわゆる「パウエル発言」は、様々な意味でクローズアップされたこと、まだ憶えている人は多いかも知れません。

様々な伝えられ方をした「パウエル発言」の内容について、アサヒ・コムのAICで連載されている高成田享氏のコラムから引用してみましょう。

「一人歩きしたパウエル発言」(「ニュースDrag」2004年5月3日付)
(参照→http://www.asahi.com/column/aic/Mon/d_drag/20040503.html

イラクで人質になった日本人の「自己責任」をめぐる論議が盛んな時期、TBSの記者がパウエル国務長官にインタビューをして、パウエル氏の見解を聞き出した。そのタイミングといい、内容といい、見事なスクープだった。

国務省のホームページからとったインタビュー記録のなかから、記者が「日本では人質になった人に対して、危険を冒したのだから、自分で責任を取るべきだという意見があるが」と尋ねたのに対して、パウエル氏が答えた部分を、あらためて私訳してみると、以下のようになる。

「危険な地域に入る者は誰もが、そのことによるリスクを認識しなければならない。しかし、誰もリスクを冒さなかったなら、私たちのさらなる前進はない。私たちの世界の前進はない、ということだ」

「より大きな、よりよい目的のために、我が身を危険に置こうとした日本の『市民』がいることをうれしく思う。日本の人々は、そういう行動をしようとした市民がいることを、リスクを冒しながらイラクに派遣されている日本の『兵士』と同様に、誇りに思うべきだ」

「(私がリスクを冒しながらと言ったのは)冒したリスクの故に、彼らがつかまったとしても、『よし、あなたがたはリスクを取った。それはあなたがたの失敗だ』などと言うつもりではない。それどころか、米国はそれでも彼らを安全に救い出すことに全力を尽くす義務を負っているし、かれらのことを深く心配する義務を負っている。彼らは私たちの友人であり、隣人であり、米国の仲間(同盟国)の市民なのだ」

・・・(以下、省略)・・・


この高成田氏による試訳に続いて、氏個人の解釈と、産経新聞の批判記事に対する反論が述べられていますが、イラク人質を含む『市民』の活動を擁護する発言、という受け止め方自体は問題がないと思います。
(なお、“4月28日付産経新聞社会面に掲載された「パウエル発言の引用されない部分」という記事”についてはリンク切れのようですが、Google検索などで大体の内容は知ることができるでしょう。個人的には些末な議論と認識しておりますので、詳述はしません。)

ただし、パウエル氏がなぜ「市民の国際協力行動を萎縮させず、奨励するという考え方」(上掲高成田コラム)を貫いているのかという点については、アメリカ通のはずの高成田氏も十分に分析できていないように、今となっては思えます。

そのことに気づかせてくれたのが、昨日も紹介した臼井氏のメールだったというわけです。

昨日と同じくMAMO氏のサイトから関連部分を引用することにします。

で、経過を省いて結果を書くと、本当の人道援助者が、軍人や政治家と一緒くたにされて狙われるということが起こっています。4月のイラクでの日本人人質事件もそのコンテクストで理解可能だし、6月にはアフガニスタンで活動していたMSFが一度に5人殺され、MSFは結局アフガニスタンから撤退する羽目になっています。この事件はアルカイダが犯行声明を出し(実際は違うやつらがやったことがわかっている)、そのなかで『MSFアメリカ軍のスパイなのでこれからも殺す』と言っています。とんでもない言いがかりで、アフガニスタン中でアメリカ軍ともっとも関係がないのはMSFなのですが、明らかに誤解されています

コーリン・パウエルはイラクを占領したとき、既にイラクで活動していたNGOを集めて、『これからはアメリカの戦闘部隊の一部として一緒に活動しなさい』といっています。なんで人道援助が戦闘部隊の一部なの? (これがMSFがイラクから引き上げたもうひとつの理由です。MSFが移動しようとするとアメリカ軍が護衛をつけようとし、断ると『では、行ってはいけない』ということが何回もありました。アメリカ軍に守られていったのでは、MSFはアメリカ軍の同胞ですと言っているようなもので、殺してくれと言っているのと同じです)

5〜6月にアフガニスタン南部でアメリカ軍がアルカイダ・タリバン掃討作戦をやったとき、『アルカイダやタリバンの残党がいたら通知してください。もしかくまうと人道援助が止まります』というビラをまいて、これはMSFなどから猛烈に抗議されてさすがに謝ったりしています。人道援助が、アメリカ軍の管轄下にあるかのような言い草です。軍人や政治家は、自分たちが人道援助と一体のふりをし、人道援助を隠れ蓑にして批判をかわして、いい子になろうとしているわけです。・・・(後略)・・・


なぜパウエル氏が「市民の国際協力行動」を「奨励」するのか、おわかりでしょうか?

阿蘇地☆曳人さんが紹介しているような、日本における「人道支援」のあり方は、いわば政府がNGOの「成果」を奪い取ろうとするものと言えるでしょう。【←8/23 21:45修正】
「自己責任」論に見られる「勝手に行って捕まるなんて迷惑だ」というような論調は、この事件によってせっかくの自衛隊の「成果」(それもアメリカに対しての)に傷がつくかも知れないという、どうしようもなく狭い了見の発露に過ぎません。

一方、パウエル氏の発言に代表される「市民の国際協力行動」を「奨励」する立場は、人道援助の普遍的価値を前提とした上で、その人道援助を国家の軍事活動に取り込み、自らを正当化すると共に「人道援助」を最大限利用しようとするものです。
「人道援助の普遍的価値を前提」とするだけ、それすら未成熟な日本などよりましという評価も可能でしょうが、このような行為は人道援助に携わる人々の中立性を損ない、生命の危険にさらし、結果として「前提」である「人道援助の普遍的価値」を損なう、極めて危ういものであると言わざるを得ません。


パウエル発言が紹介された当初、主に日本国内レベルの文脈から「自己責任」論の頭を冷やす「ガイアツ」としての役割を期待されたことそれ自体は、決して間違いとは言えないと思います。
しかし、日本人の相当数が「自己責任」としか認識できなかったイラク人質事件の「責任」を真に負うべきは誰なのかを考えた時、パウエル発言の持つ意味はあまりに複雑かつ深刻です。

つまるところ、少なくとも私は以上のような考察を経て、今頃ようやく全体の構図がおぼろげながら見えてきたということが書きたかっただけなのですが・・・。

皆さんのご意見、お聞かせいただければ幸いです。
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by hirokira1 | 2004-08-22 22:35 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 21日
軍事に食われる?「人道的介入」
前回紹介したサイトの中で、気になる続報が出ていましたので、フォローしておこうかと思います。


「すべてを疑え!! MAMO's Site」
(参照→http://www.aa.alpha-net.ne.jp/mamos/index.html
「日録メモ風の更新情報」8月18日分・19日分

前回は特に内容について紹介しなかったのですが、MAMO氏がMSF(国境なき医師団)JAPAN副会長・臼井律郎氏から受け取ったメールからの引用です。
18日分では主にイラク情勢に関する日本メディアの報道姿勢についての批判なのですが、19日分では「人道的介入」という概念が国家の軍事・政治活動の中にとりこまれつつある現状への危機感が記されていて、いろいろと考えさせられます。

19日分から、冒頭部分のみ引用します。

最近、日本だけでなく、特にアメリカなどは軍事・政治活動を”人道”の名の下にやろうとしています。NATOのコソボ空爆を人道介入と言ったあたりから、軍事・政治目的のものを人道と言い換えることを、盛んにやってます。占領軍の義務である戦後復興を人道支援と言う、というようなことです

で、経過を省いて結果を書くと、本当の人道援助者が、軍人や政治家と一緒くたにされて狙われるということが起こっています。・・・(後略)


軍事活動について言えば、「人道的介入」という言葉が盛んに用いられるようになったのは、冷戦体制が崩壊する1990年代以降のようです。


Googleで検索をかけると、最上敏樹『人道的介入―正義の武力行使はあるか―』(岩波新書、2001)に関する情報がいろいろ出てきて、この問題に関する必読書であることがわかります。

しかし、このページにおける私の基本的スタンスとして、この本を通読してから書く、などという真面目なことは決して致しません(笑)。

その代わりに、ネット上で公開されている書評、あるいは紹介文を読んで、この本の内容を「知った」ということにしておきます。

(a)「IHopeJapan希望ある日本へ」Book Reviewより
(参照→http://www.ihope.jp/humanity.htm

(b)「「人道的活動」を考えるための三冊」
(参照→http://home.att.ne.jp/theta/funyataro/MediaLab2002.htm

「他人のふんどし」を借りるというのは、まさにネット生活の醍醐味ですな(爆)。


この2つを見て痛感させられるのは、我々が「人道的介入」という言葉を如何に限定的にしか使っていないか、軍事行動を正当化する論理として受け止めてしまっているか、ということです。

最上氏はいわゆる人道的介入を、以下の3つに分類しているそうです(以下は(b)よりの引用)。

(1) 加害者、すなわち非人道的事態を引き起こしているものたちに武力攻撃を加えること。
(2) 迫害の犠牲者を救援すること。これは武力行使のほか、UNHCRや赤十字などの人道救援組織による、衣料品・食糧などの物資を届ける活動なども含まれる。
(3) 犠牲者への救援活動に対する攻撃から、それらの活動に従事する人々を守ること。


実のところ、我々が通常考えている「人道的介入」は、ほとんどの場合(1)のみだと思われます。
(2)(3)もその定義上軍事行動を含みうるものですが、(1)との違いは「(人道的)犠牲者への救援活動」に付随する限りにおいてのみ武力行使が許容される、ということです。
本来の「人道」の意味から考えれば、むしろ(2)(3)のケースが本来あるべき「介入」のあり方で、現状の方が倒錯しているとみなすべきかも知れません。

私見ですが、特に1990年代以降「人道的介入」が軍事行動の名目として常用されるようになったのは、冷戦体制の崩壊による「対立」構造の喪失が一因ではないかと思われます。
軍事行動を正当化する論理として、デフォルトに存在する“敵”は極めて説得力を持つものでした。
その“敵”がいなくなった後、新たな正当化の論理として、「人道」「人権」「民主化」などといったフレーズを国家権力が取り込もうとした結果が、(1)の「介入」をクローズアップすることにつながったのではないでしょうか?

そのような軍事的「人道的介入」が横行したために、本来「人道」的活動を進めていた人々が危険な状況に追いやられ、「人道」の回復に支障を来すことになったというのは、あまりに本末転倒なことです。
こうした構図の中で先のイラク日本人人質事件を振り返ると、なぜ彼らが狙われたかというだけではなく、なぜ日本政府があのような態度をとったのか、なぜパウエルが彼らに同情的な見解を述べたのか、初めて理解できるような気がします。


冒頭の臼井氏が所属している「国境なき医師団」のウェブサイトを見ると、我々の「人道的介入」の認識が如何に狭く、身勝手なものかがよくわかります。
(参照→http://www.msf.or.jp/

同じくMAMO氏の「「日録メモ風の〜」7月28日分で、臼井氏は次のように言っていました。
今、アフリカはひどいですが、中でも北スーダンのDarfurというところは、現在、世界で一番の人道上の危機といわれています。
 ・・・MSFは、裕福なイラクなどとっくに後にして、みんなDarfurへ向かっています


「人道支援」の名の下にイラクに「国軍」を派遣して事足れりとしている国の国民としては、ひたすら恥ずかしい限りです。
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by hirokira1 | 2004-08-21 22:09 | Cafesta過去ログ
2004年 08月 19日
「五輪停戦」をめぐるニュースたち
とある方から、「もっと力を抜いて 日記カキコしてみて♪」との忠告をいただいたので、今日は力を抜いて、楽〜に書いてみようかと思います。


平和の祭典としてのオリンピックを語る上で「五輪停戦」の持つ意味は決して小さくないと思うのですが、あまり大きく取り上げられることもないようです。

玉木正之公式WEBサイト『カメラータ・ディ・タマキ』
(参照→http://www.tamakimasayuki.com/index.htm
イラクのナジャフで停戦協議が決裂し、戦闘再開。これで、長野、シドニー、ソルトレイクシティと、冬季・夏季の五輪3大会連続して実現した「オリンピック停戦」が、今大会は実現できなくなった。もっとも、その「事実」以上に、それを報じないメディアや、過去3大会連続停戦が実現していたことを知らないスポーツ・ジャーナリストの存在のほうが問題といえるかもしれない。
(8月16日付「ナンヤラカンヤラ」より)


そもそも、社会的な視点を持つスポーツ・ジャーナリスト自体が少ないからなぁ・・・。


「五輪停戦」がどのようなものかについては、例えばこんな記事が参考になりますかねぇ。

「五輪期間中の停戦呼び掛け 国連総会議長」=共同通信
(参照→http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040805-00000087-kyodo-int
・・・国連総会は、古代ギリシャで五輪期間中に戦闘を停止する伝統があったことに倣い、リレハンメル冬季五輪前年の1993年、五輪期間中の停戦を求める決議を採択。以来恒例化し、夏、冬の五輪前年に停戦決議を採択している。


「昨年11月に総会が採択した停戦決議に基づく」そうですが、憶えてる人、どれくらいいるのでしょうか?
ちなみに私は、まるで思い出せません(^^;


より詳しい背景解説なら、こっちの方がいいかも。

特集 オリンピック物語「第三部 戦争の影〈8〉」=読売新聞
(参照→http://www.yomiuri.co.jp/athe2004/special/monogatari/mo2003090301.htm
そもそも現代版の五輪停戦はバルセロナ五輪への旧ユーゴ選手の参加を保証する“方便”として始まった。92年、国連安保理が旧ユーゴ制裁項目にスポーツを加えたため、同年バルセロナ五輪への参加が危ぶまれる事態となった。サマランチ氏は国連に期間中の五輪停戦を訴え、五輪旗の下での個人参加の道を開くことに成功する。

以降IOCは五輪ごとに、開催の前年に国連に働きかけ、「五輪停戦決議」採択を勝ち得てきた。・・・

理想が先走りする感のある五輪停戦が、古代五輪のような強い効果を上げるようになるかはさておき、平和の象徴という五輪の政治的付加価値を高めることで、政治的圧力を軽減する狙いは、今のところ当たっているように見える。・・・


国際政治との絡みも含めていろいろあるんだねぇ・・・。理想と現実、限界と可能性についてバランスのとれた解説になってます。


で、肝心の現実はというと・・・。

「「五輪停戦、できないのはテロリストの責任」米国務長官」=朝日新聞
(参照→http://www.asahi.com/international/update/0814/002.html

ハァ・・・(ため息)。

日本選手が連日大活躍の中、イラクで起きていることについて、どれだけの日本人が注意を払っているのでしょうか・・・。

気になった方は、以下のサイトも覗いてくださいな。

「すべてを疑え!! MAMO's Site」
(参照→http://www.aa.alpha-net.ne.jp/mamos/index.html
「日録メモ風の更新情報」8月18日分など

「浅井久仁臣 私の視点「第二次湾岸戦争」」
(参照→http://blog.goo.ne.jp/asaikuniomi

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どうでしょう?
こういう「いかにもブログ風」の体裁だと、随分と力の抜けた構成になっているように思えるのですが・・・。















え?



構成じゃなくて、テーマの力を抜けってことだったの??






















まあ、それはまた、いつの日にかということで・・・(爆)。
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by hirokira1 | 2004-08-19 22:09 | Cafesta過去ログ