incompleteness thinking
2006-12-24T12:12:57+09:00
hirokira1
突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
Excite Blog
半角英数記号のみのコメント・トラックバック拒否設定について
http://hirokira1.exblog.jp/4437719/
2006-12-24T12:11:00+09:00
2006-12-24T12:12:57+09:00
2006-12-24T12:11:12+09:00
hirokira1
このブログについて
無人状態のこんなブログにもときどきお立ち寄りいただく方がいらっしゃるわけで、ろくなおもてなしもできず、申し訳ありません。
さて、表題の通り、当ブログへのリンクを含まないトラックバックを受け付けない設定に変更いたしました。
コメントスパム自体は以前からありましたが、しばらくぶりに見てみるとものすごい量になっていて、唖然…。
で、設定画面を見直してみると、
半角英数記号のみのコメント・トラックバックを受付けない
※海外からと思われる多くのスパムを遮断することができます。ただし、この条件を満たすものであれば、スパムではなくても受け付けません。ご注意ください。
というチェックボタンが追加されておりまして、まあこれで一安心、と。
改めて確認すると、9月13日に追加された機能なんですね。
今頃気づく方がどうかしてますな(苦笑)。
ただ、今後全角文字のスパムコメントが蔓延する可能性も十分あるわけで、そうなったらどう対処すればいいのか、考えてみただけで頭が痛くなりそうです。
既にメールの方ではその手のスパムが相当出回っているわけですし。
実際、この数ヶ月の勤務時間のかなりの部分をスパムメール対応で食われてしまった身としては、より根源的な解決策を希望するわけですが、もちろん私如きにそのような妙案が浮かぶはずもなく…。
一方で、「スパムブロック機能追加オプション」などといってこの状況を商売の具にする向きもあったりして、もちろん対応にコストがかかるのはわかるのですが、何とも割り切れない気分にさせられてしまったり…。
まあ、愚痴はともかく、今後もぼちぼちやっていきますので、よろしくお願いします。]]>
リンクなしトラックバックの拒否設定について
http://hirokira1.exblog.jp/3763195/
2006-09-10T23:03:00+09:00
2006-09-10T23:13:26+09:00
2006-09-10T23:03:58+09:00
hirokira1
このブログについて
最近やってくるトラックバックスパムは大抵デタラメなURLのようなので、うっかりクリックしても深刻な被害を被るというわけではないのですが、いちいち削除するのがうっとおしく、設定変更に踏み切ることといたしました。
私個人としては、別にいちいちリンクを張っていただかなくても、関連するエントリからのTBは大歓迎なのですが…。
なお、エキサイトブログ内であれば、リンクがなくてもTBを送っていただくことは可能だそうです(って、もうみなさんご存じですよね)。
というわけですので、今後ともよろしくお願いいたします。]]>
MANTAさんへのお答え~靖国問題の「公私」定義について
http://hirokira1.exblog.jp/3762939/
2006-09-10T22:45:00+09:00
2006-09-10T22:56:10+09:00
2006-09-10T22:45:40+09:00
hirokira1
社会的考察
本来ならコメント欄に返信すべきところだが、エキサイトブログのコメント欄は字数制限があり、また書いている内に随分長くなってしまったので、独自にエントリを立てることにする。
まず、MANTAさんからいただいたコメントは次の通り。
Commented by MANTA at 2006-09-09 14:43 x
hirokira1さん、当方のつたない文章を取り上げていただきお恥ずかしい限りです。
また5号館さま、いつもお世話になっております。
>というような話ではなくて、MANTAさんが言いたかったのは、単に論者それぞれの
>「言葉の定義」が定まっていない、筋が見えないというだけかも知れない。
そのとおりです。くわえてTVなどを見る側に「マスコミが適当に使っている言葉に踊らされることなく、何を議論しているのか一人ひとり考えてほしい」といいたかったのです。
ただそれだけの記事ではただ「定義しろ」と書きなぐっただけの印象でしたので、自分の考えを少し書いたのですが、そこで「私はこれこれだからこう思う」と切々と書くと、結局は「他のいろんな意図(対アジア外交、戦後補償、政権、自衛隊、改憲)を主張しようとする輩」と同じかなぁ、とおもい口調を弱めたしだいです。でもおっしゃるとおり説明不足でしたし、蛇足でしたね。
以下は私自身の考えの詳細であり、押し付ける気はございません。
Commented by MANTA at 2006-09-09 14:48 x
<首相の私的参拝>
憲法20条を読むと、今回の参拝は国や機関の宗教的活動と明確化できるものではなく、首相の参拝は彼個人の宗教の自由の範疇かと私は思います。「http://ja.wikipedia.org/wiki/首相、大臣の靖国神社参拝問題」には「公用車を用い」うんぬんが問題だとありますが、ならば首相はコンビニに買い物にもいけません。タクシーで行かれても困りますし。おそらく首相が私的時間でもSPや運転手に警護義務があるということでしょう。また裏を取っていませんが、首相は時間休を取って、参拝に行っているのではないでしょうか?それ以外の争点はすべて概念的で具体性を書きます(公的とも私的ともいえる議論ばかり)。なお私のちらりとしらべた限りでは、裁判で「違憲判断」はあっても「違憲判決」はない。(判断には法的拘束力はない)
<今回の中韓の反応について>
中国は「小泉首相が参拝したから当面は首脳会談を行わない」とは、今回は言っていません。これは靖国参拝という行為が国ではなく、首相個人の行為という認識だからです。
これに対する私のコメントを次に挙げる。
--------
MANTAさん、丁寧なコメントをいただき、ありがとうございます。
もちろん私も、自分の意見を押しつけるつもりはありません。
ただ、MANTAさんのもともとのエントリが「言葉の定義」があやふやな議論への批判である以上、それを踏まえた議論は「言葉の定義」をきちっとしたものであるべきではないか、というのが本エントリの出発点になっております。
そのことを踏まえた上で、「公私」の定義を明確化するという観点から書き込んでいただいた内容を見ていくと、正直、やや物足りないという印象を抱かざるを得ませんでした。
まず憲法第20条は次のような条文になっていますね。
日本国憲法第20条
1.信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
この条文を首相の靖国参拝という問題に当てはめた場合、首相を公人と見るか私人と見るかで評価が分かれることになると思います。
もともと、この第20条を含む日本国憲法第3章は、国民の権利及び義務を規定している章です。
MANTAさんは靖国参拝する小泉首相を権利が守られるべき一国民とみなしてこの第20条をお読みになったのでしょうが、私は、小泉首相は国家行政権力を行使する最高責任者であり、むしろ第3項の「国及びその機関」に相当すると考えます。
で、どちらの解釈が正しいかは、この憲法第20条の条文からは判断できないわけです。
MANTAさんがそうお読みになったということはもちろんよくわかるのですが、憲法第20条自体は首相の「公私」の定義について何も語っていませんから、その読みの根拠となる定義はどこに求められるのか、改めて考える必要があるでしょう。
第二に「公用車」うんぬんですが、この部分はそう主張されている方への反論としてのみ有効であって、MANTAさんの考える「公私」の定義を明確にする積極的根拠にはならないと思います(ちなみに、私はもとよりそんな主張はしてません)。
第三に首相の時間休という観点ですが、これは全く考えてもみませんでした。
ただし、定義を明確にする根拠とするためには、まずその事実を確認することが必要です。
これに関してはもし本当なら大変興味深いことですので、確認できたら是非教えてください。
ただし、勤務時間外であっても「私」的行為とは限らないというのが私のエントリの第二点の趣旨ですので、これをもって定義の根拠とするのならば、私の論旨に対しても何らかのコメントをいただきたいところではあります。
最後の判例についてですが、そのなかでなされた「判断」にはそれぞれ個別の裁判の文脈がありますので、それをきちんと踏まえる必要があると思います。
また日本では特に人事面で司法が行政から完全に独立しておらず、行政に対する司法判断がしばしば回避されるということも考慮すべきと考えます。
ただ、それ以前の問題として、“「違憲判断」はあっても「違憲判決」はない”という指摘が「判断」そのものの妥当性とどう結びつくのか、不思議に思います。
「判断には法的拘束力はない」という御指摘については、私自身専門家でもありませんので、ひとまず判断保留にしたいと思います。
しかし、「法的拘束力はない」ということと、その判断が妥当ではないということは、論理的に結びつかないように思われます。
できましたら、この点については補足して説明していただけないでしょうか?
なお、「公私」の定義の問題からは外れる<今回の中韓の反応について>でのお話ですが、このままの形式では推論として不十分であるように思われます。
普通に考えれば、中国や韓国が「首脳会談を行わない」と言うにせよ言わないにせよ、それは先方の都合によるわけで、そのことだけから「首相個人の行為という認識」とは判断できないのではないでしょうか?
具体的な根拠を提示せずにどうしてそう断言できるのか理解に苦しむところですが、もしそう判断できる確固たる証拠がありましたら、御提示いただけると幸いです。
以上見てきたように、MANTAさんが提示された内容からMANTAさんなりの「公私」の定義を読み取ることは、少なくとも私には困難に感じられました。
お互いの見解が異なるのはもちろん仕方のないことなのですが、その見解を支える「言葉の定義」が曖昧であるのは、今回の議論の出発点から見るとやはりまずいのではないかと考えます。
重ねてお手数をお掛けして申し訳ないのですが、改めてMANTAさんの考える「公私」の定義を提示していただけば幸いです。
その際、できれば拙エントリの論旨についても(特に「公約」との関係など)、何らかの言及をいただければと存じます。
あるいは、コメント内で述べられた、概念的で具体性を欠く「それ以外の争点」に私の論旨は含まれるということなのでしょうか?
そうだとすれば私としては大変残念なことなのですが、できましたらその理由についてもお教えいただくよう、お願いいたします。
以上、あれこれと書き連ねましたが、私の意図はあくまでも、如何にして有益な議論を立ち上げるかというところにあります。
たとえ互いの見解が異なっても、いや互いの見解が異なるからこそ、MANTAさんとの建設的な議論の可能性に期待しているわけです。
私の見解の中で御不快に感じられるところはあるでしょうし、またもちろん御多忙のことと存じますが、御一考いただきますよう、お願いする次第です。]]>
靖国問題の「問題」を解きほぐすには
http://hirokira1.exblog.jp/3721509/
2006-09-06T00:42:00+09:00
2006-09-06T00:48:21+09:00
2006-09-06T00:42:06+09:00
hirokira1
社会的考察
「そのうち時間が出来たら」更新しようと思いながら、春が過ぎ、夏が過ぎ…。
もう「多忙」でなくなる日はやって来そうにないけれど、このブログに関しては思い付いた時にたまに書く、不定期更新ブログとして細々と続けていこうと思う。
さて、いくつか棚上げのテーマがあるのだが、今回はちょっと気にかかっているエントリについて。
『So-net blog:海の研究者』:「靖国問題の「問題」」
『5号館のつぶやき』「オカルトと議論することの不毛」
経由で読ませていただいたのだが、その中でのMANTAさんの論の進め方について、どうにも気になるところがあるので、改めて考えてみたい。
まず第一点。
昨日の小泉首相の「靖国参拝」が新聞・テレビで大きく取り上げられています。
ところが私には「何が問題なのか」さっぱり理解できないのです。
え、あそこってA級戦犯も祀られているんだよ!
首相っていう国の代表がそこをお参りしてるんだよ!!
アジア各国が不快感を示してるんだよ!!
それはわかっています。ただA級戦犯って、なんでしょうか? 国の代表の意味は?
わかっているようでこういう「言葉の定義」がきちっとできていない気がします。
・A級戦犯については、東京裁判そのものを無効とする考え方があり定義がはっきりしない
=「戦犯」の定義とは?
・小泉首相は私人としての参拝を主張しているが、私人たりえないのではないかとの反論あり
=「公私」の定義とは?
ディベートに関する記事で書きましたが、言葉をきちっと定義しないとこういう成否論はできません。どうも報道を見ていると、この定義をあいまいなまま、ただ騒いでいるように思うので「何を問題とした報道なのか」が私には理解できないのです。
ここで表明されている「言葉の定義」のあいまいさについては、実感としてよくわかる。
ところがこの後で、今年の小泉首相の靖国参拝について、以下のような見解が示される。
私個人は、政府の見解どおり、今回は小泉首相が私人として一宗教法人を終戦記念日に訪れた、ただそれだけだと考えています。
現に中国・韓国も今回の参拝に対しては過去ほどの過剰な反応を示していません。これは結局中国なども彼が公人ではなく私人として参拝していると認めていることを意味するのではないでしょうか?つまり任期を終えようとする小泉首相個人を批判することが中国などにとってはもうメリットではない、と私は解釈しています。中国なども小泉首相という「私人」を批判することで日本を批判していたわけです。
特に二番目の中国などの反応に対する解釈は、どのような理路に基づいてこのように解釈しているのか、さっぱりわからない。
MANTAさんなりの「言葉の定義」に相当する記述が一切示されないまま、これらの(とりあえずの)結論が提示されてしまったことは、非常に残念な気がする。
「言葉の定義」の曖昧さを批判するエントリである以上、きちんとした「言葉の定義」を踏まえた見解を示して欲しかった。
靖国問題全般となると一エントリで扱うにはあまりに大きな問題過ぎるので、ひとまず「公私」の定義に絞って考えてみよう。
この点に関しては、次のエントリのタイトルが全てを物語っているように思われる。
『Apes! Not Monkeys! はてな別館』
「公約に基づき私人として内閣総理大臣という肩書きつきで実行される心の問題」
内閣総理大臣・小泉純一郎は「公約」に基づいて参拝した。
参拝を支持する人々は、「よくぞ公約を守った」と拍手喝采した。
参拝を支持しない人々は、「公約だからといって正当化できるのか」と批判した。
いずれにおいても、「公約」に基づく行為として首相の靖国参拝を語っている。
言うまでもなく、「公約」は私的な内容を含まないというのが「言葉の定義」である。
以上のことから判断して、「公約」に基づく首相の靖国参拝は「私人として」の行為ではあり得ないと考える。
第二点。
「「言葉の定義」がきちっとできていない」点が問題であるという指摘は納得できるのだが、ではここで挙げられている論点についてきちっとした「言葉の定義」ができるのかどうか?
これがまた、やっかいな問題である。
上に挙げた小泉首相の事例では、「公約」という補助線に注目すれば容易に判断できる。
だが、このような補助線が予め引かれていない場合、どのように判断すればよいのか?
例えば、次期首相の最有力候補とされる安倍晋三は、
「首相に就任した場合でも「参拝・不参拝」を公表しない考えを明らかにしている。」とのことである(参照記事)。
この場合、公表されないまま参拝が行われたとして、それは「公式」と「私的」のいずれと判断すべきだろうか?
恐らく、意見の分かれるところなのではないだろうか。
ここで「公私」の別を判断するための補助線として、公共事業にかかわる関係省庁の官僚と関連業者との関係を取り上げてみよう。
例えば、これらの官僚に対して業者から歳暮や中元などが渡された場合、私たちはそれを「不正」と判断する。
それは、これらの物品の授受が官僚の勤務時間内に職務として行われるから、そう判断するというわけではない。
そのような官僚クラスであれば一般人よりは当然裕福であろうから、通常のつきあいとして授受される物品も多少高価なものであるのが自然である。
もしかしたら、その官僚と業者は旧知の仲で、ずっと以前から“当然の人付き合いとして”そのような物品の授受を行っていたかも知れない。
しかし、そのような事情に関わりなく、たとえ勤務時間外の完全にプライベートな時間に行われた行為であっても、私たちは「天下の公僕でありながらけしからん!」と憤ることになるだろう。
万一その官僚が「これはプライベートな問題だからごちゃごちゃ言うな」とでも言おうものなら、「盗人猛々しい!!」とさらに怒りがこみ上げるに違いない。
何故か?
そのような行為は、その官僚が国民から委託された「公権力」の不適切な行使と見なされるからである。
その官僚が預かる「公権力」はあくまで国民から委託されたものであるから、適切に、そして公正に行使されなければならない。
一般の庶民であれば通常レベルの私的な行為であっても、「公権力」を託された者が行えば「私的」とは見なされないことがある。
そしてその程度・範囲は、委託された「公権力」の程度・範囲によって決まるのである。
安倍晋三が首相となった場合の靖国参拝を考える際も、その公私の別は彼が委託された「公権力」の程度・範囲が決めることになるだろう。
言うまでもなく、首相=内閣総理大臣は、日本政治の最高責任者である。
彼の言動は逐一報道されることとなり、それらは民主主義に基づく日本国民の(とりあえずの)総意として受け止められることとなる。
たとえ本人が公表しなくとも、首相が靖国参拝を行ったということがて報道され、「事実」として認知されれば、それは首相の持つ「公権力」の大きさから見て、やはり「公権力」の行使と判断するしかないのではなかろうか。
ひとまず、現時点での私の見解は以上だが、この「言葉の定義」を前提として首相の靖国参拝を議論するというのは、実のところかなり難しいのではないかという気がする。
一読してわかるように、私のこの見解によれば、報道された時点で「首相の私的参拝」という解釈はありえない。
MANTAさんのように首相の私人としての参拝を認める立場からすれば、私の「言葉の定義」は厳しすぎるということになるだろう。
一方、私の「言葉の定義」では誰にも知られなければ参拝しようが何しようがかまわないことになるが、それすらも認めない立場の人もいるだろう(もっとも、知り得ないことはそもそも禁止しようがないけれど)。
これらの立場の違いをきちっとそろえて共通の「言葉の定義」を共有しないと議論ができないのであれば、恐らくいつまでも議論は始まらない。
議論において、多くの場合は「言葉の定義」の段階から既に断絶がある。
ならば、「言葉の定義」を共有できるレベルまで一旦戻ってそこから議論を始めるか、あるいは自分の「言葉の定義」に基づいて論を展開して見せ、その定義が現実を論じる上でより有用であることを示すというのが次善の策となろう。
どちらにしても面倒な手続きではある。
でも、その面倒な手続きを踏まない限り、議論は一歩も進まない。
というような話ではなくて、MANTAさんが言いたかったのは、単に論者それぞれの「言葉の定義」が定まっていない、筋が見えないというだけかも知れない。
であればなおのこと、MANTAさんにはMANTAさんなりのきちっとした「言葉の定義」を踏まえた論理的な立論を期待したいと思う。
最後に補足を加えておくと、MANTAさんが指摘した「言葉の定義」の問題は、間違いなく靖国問題の「問題」の核心をついていると思う。
靖国問題は、それを構成する一つ一つの「言葉の定義」を恣意的に操作することによって、これほどに「解決困難な問題」として自己の存在を認めさせることに成功したとも言える。
その「解決困難な問題」を解きほぐすのは簡単ではないけれど、恐らくは一つ一つの「言葉の定義」がどのように生成されてきたかという、歴史的な観点が必要になるはずである。
例えば、「私的参拝」なるものがいつ頃、どのような形で出現したのかを見ていくだけでも、問題の構造はかなりわかりやすくなるだろう。
ご多忙のご様子なのでもちろん急かすつもりはありませんが、期待しております。
]]>
ジャーナリズムの「評価」
http://hirokira1.exblog.jp/2942498/
2006-04-09T09:41:39+09:00
2006-04-09T09:41:39+09:00
2006-04-09T09:41:39+09:00
hirokira1
社会的考察
どうして、そこまで熱くなれるのだろうか?
「既視感」という言葉も思い浮かんだのだけれど、例えばWikipediaで「既視感」を見てみると冒頭で
既視感(きしかん、Deja vu)は、一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したように感じること。 デジャヴ、デジャビュ。
などとあるので、ここで使うのはちょっと違う気がする。
むしろ、手を変え品を変え間断なく見せられ続けている構図が、ここでもまた繰り返されているという印象を受ける。
要するに、『湯川鶴章のIT潮流 powered by ココログ』にアップされた泉あいさんとの対談に関するポッドキャスティングのエントリが説明もなしに公開停止され、『ネットは新聞を殺すのかblog』での関連エントリも告知なしに「消えた」ことに対する、一部の人々の反応の話である。
関係エントリが「消えた」ことの不自然さは確かであるし、それに対して説明を求めること自体は自然な成り行きである。
が、ここまで騒ぐほどのことだろうか?
『Bigbang』
「湯川氏と時事通信社は一刻も早い説明を。------泉インタビューの削除に関して」
「湯川氏と時事通信社は一刻も早い説明を(2)------泉インタビューの削除に関して」
ここで書かれていること一つ一つについて言えば、特に間違いはないと思う。
ただ、いくつかの間接情報から「月曜日には何らかの告知があるらしい」というところまでわかった以上、憶測を交えつつ事の重大さを力説する必要はないんじゃないだろうか?
月曜日になれば事は明らかとなる。
そこで公開されるであろう「告知」を待って、それを踏まえて疑問点を指摘していくというのならば、まだ理解できる。
だが、それまではどうやっても憶測・推測・可能性でしかない「事の重大さ」を今の時点であれこれ語ってどうなるのだろうか?
一刻を争う問題として、即時に対応しなければ傷口が広がってしまうとすれば、それは第一に憶測が憶測を生み、当事者が収拾不可能になるほどの大騒ぎになってしまうからだろう。
とすれば、そもそも「事の重大さ」を生み出しているのは誰なのだろうか?
なお付け加えておくならば、こと今回の件に関しては、Bigbangさんをはじめ、コメントを加えている各氏も現段階では相当に抑制が効いているように感じられる。
正直なところ、この騒ぎを過剰と見るか、Bigbangさんが率先して騒いでくれたからこそこの程度の騒ぎに収まっていると見るのか、現時点では微妙なところだろう。
私としても、皆さん「そのくらい先刻承知」なのだろうと思いたい。
ただ、もし後者であるとすれば、「あるいはより大騒ぎしていたかも知れない」ネット上の言論のあり方に対する違和感はさらに増大せざるを得ない。
そして、この違和感こそが、冒頭で述べた「手を変え品を変え間断なく見せられ続けている構図」に繋がっているように思われてならないのだ
例えば、一昨年春のイラク人質事件における「自己責任論」。
その後まもなくに起きた、北朝鮮拉致被害者の家族に対するバッシング。
最近の例では、民主党・永田某のメール疑惑に対する一連の騒動とか。
確認しておかなければならないのは、これらの例において、批判する側の持ち出す論理自体は「常に正しい」ということである。
が、その「常に正しい」論理は、どういうわけか誰に対しても「常に適用されるわけではない」。
イラク人質(及びその家族)に対する「自己責任」論は、イラクに自衛隊を派遣した日本政府の「自己責任」論を追求しなかった。
拉致被害者の家族を「礼儀がなってない」と批判する論理は、その家族の訴えを20年以上黙殺してきた「非礼」には適用されなかった。
永田某の「ガセネタ」に対する批判は当人を議員辞職に追い込んだが、日本国民にとってははるかに深刻なこちらの「世紀のガセネタ」(『情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ)』より)は、その深刻さにもかかわらず放置されたままで、張本人も任期を全うする見込みである。
事の深刻さ・重要さにおいてはいずれも後者の方がはるかに勝っているにもかかわらず、これらの「常に正しい」論理はその深刻かつ重要な問題の改善に寄与するどころか、むしろ覆い隠す方向に作用している。
もちろん、論理そのものに罪はない。
責められるべきは、その「常に正しい」論理をより矮小で、より瑣末な対象に優先的に適用する人々の価値判断である。
「ジャーナリズムはいかにあるべきか」という問いによって、それぞれの「ジャーナリズム」に対する評価を下すことはもちろん可能である。
しかし少なくとも私にとっては、そのような「ジャーナリズム」論の妥当性や正当性よりも、そんな「ジャーナリズム」論を振りかざすことによって生まれる「ジャーナリズム」が実際に何を生み出すか、何をもたらすか、ということの方がはるかに重要である。
だから、一見して精緻で高い理想を掲げている「ジャーナリズム」が単に重箱の隅をつつくだけの結果に終わってしまうのを見るのは、何ともせつない。
できれば、「杞憂」であってほしいと思う。]]>
これからのGripBlogに向けて
http://hirokira1.exblog.jp/2924498/
2006-04-05T01:58:00+09:00
2006-04-09T10:28:10+09:00
2006-04-05T01:58:25+09:00
hirokira1
社会的考察
移行が完了したら、新しい拠点での活動が始まるのだろうか。
【4/9 追記 新しい『GripBlog』のサイト変更に伴い、リンク先変更しました。】
これに対して、『tracker's burrow』のAaさんが「人の善意を前提としたシステムの結末:GripBlogの移転によせて」というエントリを寄せている。
Aaさんとは違って、私自身は『GripBlog』とそれほどの関わりがあったわけでもなかったのだけれど、こういうエントリを書いた手前、「袖刷りあうも他生の縁」ということで、ここしばらくの間に感じたことなどを書きとめておこうと思う。 はじめに断っておくと、私自身は『GripBlog』そのものに対してそれほど思い入れがあったわけでもないし、熱心な読者というわけでもなかった。
一年位前からか、ブログ界隈でぼちぼち話題になっているのを目にして、ふぅん、こんなことをしている人がいるのかと興味を持ってみたものの、どうにも素人っぽい文章と(自分のことを棚にあげてすいません^^;)、周りを取り巻く人々の異様な熱気についてゆけず、必ずチェックするブログとするまでには至らなかった。
思いかえしてみると、当時私がそう感じたのは、私自身がまだブログ界隈の住人ではなかったということと無関係ではなかったような気がする。
当時のブログ界隈には、ブログが生み出す新たなコミュニケーションの可能性に対する「過剰な期待」がまだ漂っていた。
こう書くと「そんなことはない。あの時点で既にブームは終わっていたんだよ」と教えてくれる親切な人が出てきそうだけれど、それは誰にでも一様に存在するものではないわけで、人それぞれとしか言いようがない。
少なくとも当時のクールで寡黙な一ウォッチャーから見てそうだったのである。
そして、そんな雰囲気の中で、『GripBlog』は自ら現場に出向き、ブログの弱点とされていた一次情報を取ってくる「活動するブログ」として、急速に注目を集めるようになる。
この時、泉さんがジャーナリストとしては全くの素人であり、取材者としてもライターとしても特段のスキルを持っていなかったということが、逆に『GripBlog』の評価を実態以上に高めたように思われる。
既にプロのとしての地位や評価を得ているジャーナリストが何人もブログを用いた情報発信を行っていたにもかかわらず、泉あいさんと『GripBlog』が特に持ち上げられたのは、それが「ブログの生み出した新たなムーブメント」の一つとして認知されていたことと無関係ではないだろう。
そういう意味では、『GripBlog』はブログ界隈の雰囲気を象徴する一つの「時代」であり、今回の顛末に対してAaさんが言うような「一つの何かが終わったのだ」という感想にも共感を覚えてしまう。
拙さゆえに持ち上げられ、期待を集めた人が、同じくその拙さゆえに攻撃を受け、突き落とされる。
別にブログの世界に限らずあちこちで見かける光景なのだけれど、目の前で見せられるとやっぱり切ないものである。
上昇期にはろくに協力しようともしなかった一ウォッチャーと言えども、こういう場面に遭遇すると「何もそこまで言わんでも・・・」とつぶやきたくなってしまうのだ。
「ブログが生み出す新たなコミュニケーションの可能性」なるものが問われるのは、むしろこういう場面でこそ、なのではないだろうか。
イケイケドンドンの絶頂期より、息苦しく所在のない後退期の方が、そのものの真価はより露になる。
「人の善意を前提としたシステムの結末」として論じられている内容は概ねうなづけるものだけれど、「システムの結末」を語るには、ちょっと早すぎるのではないか、というのが私の所感である。
もちろんこれは、Aaさんが問題にしているであろう、泉あいさんを頂点に、『GripBlog』を中心とするシステムの結末とは別の話なのだけれど。
泉さんに対してはいろいろと思うところがあるけれど、さしあたりご自身にふさわしい「ロールモデル」を早く見つけることが肝要なのではないか、と申し上げたい。
『GripBlog』(そしてそれを支えていたブログ界隈の期待)の底流をなしていた「既存マスメディアに対する不信感」については大いに共感するのだけれど、「~ではないもの」や「~とは異なるもの」をいくら集めても明確な方向性は生まれない。
新しいものを生み出したいと思う時に「古いものを見習え」という助言は鬱陶しく聞こえるものなのかも知れないが、未踏の荒野にあっても「あの人ならこういう場合きっとこうするんじゃないか」という具体的なイメージが持てれば、大抵の困難は切り抜けられるものだと思う。
「もっと本を読んだら」とか、「ジャーナリストとしてのきちんとした修練を」とか言うようなアドバイスも、つまりは自分なりの「ロールモデル」を持つ必要性を指摘しているわけなのだし。
私の狭い見聞では高田昌幸さんとか、いい「ロールモデル」になりそうに思えるのだが、どうだろう?
今回の一件で、泉さんがその評価を下げてしまったとはいえ、もともとの評価が過大であったのだと考えれば、それほど落ち込むこともないのではないかと思う(とはいえ、これまで支えてくれた人に実害が及んだとなればそうもいかないのだろうけれど)。
私は、どんなに博識で賢明な人であっても、「引き受けない人」に興味はない。
逆に、どんなにちっぽけな力しか持たない人であっても、「引き受ける人」は応援したいと思う。
今後、もし活動に制約がかかるとしても、自分が引き受けられる範囲で引き受け、活動していっていただければと願うのみである。
【4/9 追記】
新しいサイトにコメント・TBごと移転、コメント欄再開とのこと、まずは何よりです。
何やらごたごたが続いているようですが、適切な対処を心がけていれば何とかなるでしょう。
ただ、過去の財産を可能な限り生かすという方向で考えると、『GripForum』内のスレッドについても、過去ログなり何なりの形で再アップしていただきたいと思います。
特に急ぐ必要もありませんが、皆が『GripForum』のことを忘れてしまわないうちに・・・。
以上、『GripForum』に最後に登録した、恐らくはほとんどの人が気づいていないであろうメンバーからの要望でした(笑)。]]>
個人情報の扱いに対する基準とは?
http://hirokira1.exblog.jp/2828262/
2006-03-15T01:32:00+09:00
2006-03-28T07:29:13+09:00
2006-03-15T01:32:39+09:00
hirokira1
社会的考察
今の私がまさにそういう状態。
けれども、たまには、「脊髄反射」というのをやってみようかと思う。
以下、『5号館のつぶやき』経由で知った事件についての、とりあえずの感想を記しておきたい。 事の詳細については、ひとまず「捨てたもんじゃないブログの世界」、及びそこからの張られているリンク
『BigBang』
「民主党ブロガー懇談会・アーレフ関与問題----GripBlogと松永氏に問う」
「民主党ブロガー懇談会・アーレフ関与問題----勇気に敬意を表す」
『GripBlog~私が見た真実』
「オウムとは無関係です」
『404 Blog Not Found』
「オウム憎けりゃことのはまで」
辺りをたどれば概略理解できるので、ここでは特に繰り返さない。
私自身、『絵文録ことのは』の愛読者でもあるのでショッキングな話といえばそうなのだが、そのこと自体が気になるかといえば、それほどでもない。
『5号館のつぶやき』では、「あまり細かく知りたくもない話」とされているが、まったく同感である。
さしあたり、『5号館のつぶやき』さんの意図するメッセージと思われるところを引用して、うなづくこととしたい。
ともすれば、イェロー・ジャーナリズムと呼ばれるものや、不必要なあおり、暴言が渦巻くばかりと言われがちなネットの世界で、何人かの大人が冷静にものごとに対処するところを見せていただいた気がして、ある種のさわやかさを感じております。
「松永」さん、その誠実さを忘れずに過去に対しての落とし前を個人的につけてください。BigBangさんが、おっしゃっていることには、私も同じような意見を持っています。
後段の一文は、恐らく「個人的に」の部分にアクセントをつけて読むべきなのだろうと思う。
それにしても、こういった話がどうして出てきたのか、出さなければならない必然があったのかどうか、そちらの方が不思議ではある。
情報の発信源は野田敬生氏ということらしい。
ひとまず『ESPIO』の中の以下のエントリのみ目を通してみる。
「民主党・前原誠司代表と河上イチロー氏、その驚愕の接点!」
「民主党本部を直撃」
「欺瞞情報」
一読した限りでは、松永氏の個人情報を除けば、タイトルの割にそれほど驚くような内容が書かれているとも思われない。
「驚愕の接点!」というから何だと思えば、
なんと松永氏は昨年10月31日、永田町の民主党本部で開かれた「民主党 ブロガーと前原代表との懇談会」なるものに参加していた!
そんなの、ブログに関心のある人間なら大抵は知ってるでしょ(苦笑)。
確かにあの懇談会は誰でも参加できるというものではなく、泉さんがブロガーの人選を行って開催にこぎつけたとのことではあるが、内容は取り立てて機密性の高いものでもない意見交換であり、その後参加したブロガーはめいめいその内容を紹介しているものである。
「接点」といえば「接点」だし、「公党の活動に関与」と言いたければそう言えなくもないだろうが、そのポジションや振る舞いから見るにそれは一般の有権者と政党関係者のよくある交流に過ぎない(対象が“ブロガー"であり、多少の物珍しさと宣伝効果への期待があるくらいか)。
わざわざ当人にとって致命的になるかもしれない深刻な個人情報を公開する根拠としては、とても十分なものとは言えないだろう。
特に三番目の「欺瞞情報」などは野田氏があちこちの関連情報に対していちいち反駁を加えるというものだが、何もそんなところにまで力こぶをためて反論しなくてもというところまで反論しながら、「決して杞憂とはいえない」「不思議と言えば不思議」など、その主張が確信には程遠いとする表現があちこちに見受けられる。
野田氏自身、このような個人情報を公開する正当性探しに苦心している様子がこういう表現に見え隠れしているように思われるのだが・・・(そういうところを隠さないのが野田氏の誠実さという見方もあるが)。
「元信者」であることを暴露されれば、最悪当人の生活が致命的なダメージを受けるだろうことは、まともな大人であれば容易に推測可能なことだ。
それでもなお、そのことを公開しなければならないというのであれば、最低でもそのダメージを上回るだけの社会にとってのメリット、逆に言えばそれを公開しない場合に社会が被るであろうデメリットの大きさをはっきり示すことが求められるだろう。
この点に関する説明責任を野田さんが果たしているとは、私が見た範囲では確認できなかった(なお「欺瞞情報」では、「何度も繰り返すので読者も辟易してしまうかもしれないが」と前置きして事の経緯を語っているから、それ以前の氏のエントリを読み直す必要はないと判断する)。
だから、泉さんがこの件に関して当初コメントを渋ったこと自体は、「ネットジャーナリズム」に携わる人間として“真っ当な算術”ができているということであり、むしろ評価に値するのではないかと思う。
また、弾さんが用いている「イエロージャーナリズムの犬」というような表現も、上述のような“真っ当な算術”ができていないという批判が込められているのではないだろうか?
さらにより広く言えば、ネット上にこだまする「マスゴミ批判」も、その根底には「マスコミさん、もっと"真っ当な算術”をしてよ」という思いがあるのではないだろうか?
ならば、情報を受ける側の一人として、私もまた“真っ当な算術”を肝に銘じる必要があるだろうと思った次第である。
というわけで、こういう問題ももっと自分たちの問題として考えようよ、という脊髄反射的な反応でした。
追伸:普段の私の流儀には反するのですが、このエントリ、『ESPIO』にTBを送るのはやめにしておきます。
「確信的に筆者の信用失墜を狙った欺瞞工作」扱いされてはたまりません。
【3/28 7:25 追記】
『Grip Blog』での騒ぎも一区切りついたようで、まずは一安心なのだけれど、いくつか補足。
あの騒ぎは何だったのかということについては、安曇信太郎の「イヤならやめろ!」の「今年の流行語『ガセネタ』」に次のようなくだりがある。
最初に『Flash』の記事の話を聞いたときは驚いた。
しかし記事を読むと、単純に民主党バッシングに便乗しただけの記事に過ぎないことがわかる。
また、『ガ島通信』の「絵文録ことのは・GripBlogで起きたことへの私見」では、
不思議なことは、自民党の懇談会への参加があまり問題になっていないことです。野田氏のブログには3月6日に「民主党本部を直撃」とのエントリーが上がっていますが、この直後の7日に開かれた自民党のブロガー懇に松永氏は出席しています。それも自民党が選んで出席している。泉さんは知らなかったかもしれませんが、自民党の事務局は知るチャンスがあったわけですから、罪があるならより重いはずです。泉さんを攻撃されている人はなぜ自民党を批判しないのでしょうか。言うまでもなく、これは「自民党も批判すべき」という指摘ではなく、政治への関与云々を問題にしながらその追求対象が偏っているのは「不思議」という指摘である。
結論だけ確認すると、今回の騒ぎは「オウム」という敏感なキーワードに反応して、「政治への関与」を口実に行われた「弱いものいじめ」だったのだろうということである。
泉さんの対応がもっと適切であったなら・・・という見方がネット上では優勢だけれど(もちろんそれが間違っているわけではない)、それは多分この騒ぎの本質ではないと思う。
いずれにせよ、この手のバッシングは当事者の中でもっとも弱いところに集中するものであり、今回の場合は泉さんと『Grip Blog』がその対象になってしまったということなのだろう。
今回の騒ぎを通じて、受け手である「こっち側」の問題の根の深さを改めて思い知らされる。]]>
皇室典範改正問題と天皇制
http://hirokira1.exblog.jp/2665268/
2006-02-09T23:38:00+09:00
2006-02-09T23:42:29+09:00
2006-02-09T23:38:32+09:00
hirokira1
社会的考察
愛子さまが本格的に教育を受け始める前に女性天皇への道を開くべきだとか、万世一系男系相続は日本の伝統文化だとか、秋篠宮の第三子誕生を見極めてから議論すべきだとか、圧倒的な力を持っていたはずの小泉首相が思わぬ苦戦を強いられたとか。
聞きかじりで何か書くのは気が引けるので、とりあえずGoogle Newsで検索してみたのだが、「皇室典範」で849件もヒットしたので、即断念。
もっとも、この件については昔書いたこの文章で、ほぼ言い尽くした感があったのだが・・・。
「お世継ぎ問題解決のため、東宮に大奥を!」
もともとは短い時間で書きなぐった「ネタ」的な文章なのだけれど、基本的なスタンスは今もほとんど変わっていない。
そもそも、「血統」を継承し続けるということは、極めて「業の深い」行いなのである。
生を営むということ、生を受け継ぐということ自体ももちろん「業の深い」行いには違いないが、「血統」を継承するということはそれらの行いの上位に「血統」を据えるということである。
まして、それが一国の「国のかたち」を左右するとなれば、その「業の深さ」は想像を絶するものがある。
もちろん、後宮にせよ、大奥にせよ、単に権力者の「業の深さ」だけによって営まれたわけではない。
前近代の権力継承システムのすべてがそうではないけれど、概して「血統」による権力継承は、それによらない権力継承よりも相対的に安定するものである。
もし「血統」という縛りがなければ、代替わりごとに「我こそは!」と意気込む者たちによってバトルロイヤルが展開され、社会システムの安定を揺るがしかねないからである。
「血統」によって得られる「社会システムの安定」のメリットが、「血統」及びそれを維持する諸制度の「業の深さ」と釣り合うか上回る場合、その「業の深さ」は理にかなうものとして、社会によって許容される。
前近代にあっては、おそらくほとんどの場合そうであったと思われる。
では、今議論されている皇室典範の場合はどうだろうか?
「民主主義社会」「象徴天皇制」等の現状を鑑みるに、少なくとも「社会システムの安定」にとって皇室の「血統」が寄与する比重は相当に低く見積もってかまわないだろう。
むろん、現在にあってもそれは決してゼロではなく、相応の重要性を持っているはず。
その相応の重要性に見合う程度に「血統」の「業の深さ」を再定義することこそが、本来なされるべき「皇室典範改正」ということになるのではないだろうか?
既に権力者ではなく、純粋に「血統」のみをその存在根拠とする天皇制の現状を鑑みるに、これはすなわち天皇制の再定義に他ならない。
私を含む日本の国民は、単にワイドショーの視聴者ではなく、皇室に対して「業」を背負わせている当事者として、この問題を自らの問題として受け止める必要がある。
少なくとも、「秋篠宮の第三子が男子なら一件落着」というような軽い話ではない。]]>
今さらながら新年の抱負を
http://hirokira1.exblog.jp/2639539/
2006-02-04T23:47:05+09:00
2006-02-04T23:47:05+09:00
2006-02-04T23:47:05+09:00
hirokira1
このブログについて
アクセス数を見てみても正確なところは判らないが、延べ人数で数百人にはなりそうで、放置状態のブログ主としては、まずはお詫びを申し上げなければなるまい。
昨年末からこの方、立て続けに出張やら何やら、とにかくブログどころではない状態が続きっぱなし。
復帰したら「なるほど師走とはよく言ったもので…」などと言い訳しようと思っていたが、師はとっくに地平線の彼方まで走り去ってしまわれたようで(涙)。
主の不在中にご訪問いただいた皆様、改めまして「すみません」でした。
さて本年については、既に判っている予定だけでも、これまで以上に忙しくなることはあっても暇になる可能性はまずないらしい。
今後の更新も不定期になりそうだが(そもそも最初から不定期だったけれど)、書ける時があれば短くてもいいからまとめて書くようにして、トータルで平均すると週一本程度のペースになるようにできれば、と思っている。
というようなことを書きながら既に一ヶ月以上経っているのだけれど、旧暦でかぞえると今日はまだ正月七日。
正月七日は五節句の一つ、「人日」(Wikipediaの説明)というらしい。
七草粥なんてもう随分前に食べたよ、なんて人も多いだろうが、本来であれば今日食べるのが正しいのである。
もっとも私の場合、何時食べるか云々以前に、もう少しマシな食生活を目指さないといけないのだけれど(苦笑)。
何はともあれ、本年もよろしくお願い申し上げます。
]]>
トートロジーな説明について
http://hirokira1.exblog.jp/2188454/
2005-11-14T00:26:00+09:00
2005-11-14T00:36:55+09:00
2005-11-14T00:26:45+09:00
hirokira1
論理的考察
これを例えば x について展開して、「 x = ( c - b ) / a 」などとするのは、もちろん数学的論理として通用する手続きである。
しかし、この ax + b = c が c について「 c = ax + b 」であることを利用して、
「 ax + b = c の c に ax + b を代入すると、左辺と右辺が等しくなる。
従って、この式は何の意味も持たない無内容の式である。」
というような説明があれば、誰が見ても「これは変だ」と思うだろう。
もしこのような論理展開を認めるならば、いかなる式に対しても「この式は何の意味も持たない無内容の式」であるということになるからだ。
従って、上の説明の前半部分は「トートロジー」であり、それを根拠として後半部分のような判断を下すことは「誤り」となる。 というようなことをわざわざ書いたのは、前のエントリ及びその前のエントリで、トートロジーな説明について言及したからである。
これはこれで重要な問題だと思うので、先の言及に対する責任をとるという意味も含めて、ひとまず独立したエントリを立てて改めて確認してみよう。
『犬桑』さんは「内田式論法ネタの後始末(3)」の中で、次のような説明によって、内田先生のこのエントリで述べられている内容がトートロジーであることを示そうとされている。
ええと、内田先生は「支配的な社会理論には、それがどのようなものであれ、必ずそれを教条化し、その理説のほんとうに生成的な要素を破壊する『寄生虫』が付着する。」と「哀愁の...」では書いています。
これを参照して「フェミニズムの発展を阻害しているのは曲学阿世の徒だ!」=「フェミニズムのほんとうに生成的な要素を破壊しているのは寄生虫だ!」だったらいくらなんでも異論は無いですよね?
で、内田先生は「寄生虫」という喩を「支配的な社会理論には、それがどのようなものであれ、必ずそれを教条化し、その理説のほんとうに生成的な要素を破壊する」ものがいて、そいつのことだと定義しているわけですから「フェミニズムのほんとうに生成的な要素を破壊しているのは寄生虫だ」=「フェミニズムのほんとうに生成的な要素を破壊しているのは支配的な(中略)生成的な要素を破壊するヤツだ」ってことになりますよね。トートロジーじゃないですか。違いますか?無理なんて全くありませんよ。
ここで展開されている論理は、
【式1】「フェミニズムのほんとうに生成的な要素を破壊している」もの=「寄生虫」
という内田先生の主張に対して、
【式2】「寄生虫」=「支配的な社会理論には必ず存在する、その理論を教条化し、その理説のほんとうに生成的な要素を破壊する」もの
という内田先生が述べている別の主張を代入することによって、
【式3】「フェミニズムのほんとうに生成的な要素を破壊している」もの=「支配的な社会理論には必ず存在する、その理論を教条化し、その理説のほんとうに生成的な要素を破壊する」もの
という言説を導き出し、両辺が同じ内容を持つものと判断して「トートロジー」と断定するというものである。
厳密に言えば、【式1】は「フェミニズム」についての主張であり、一方【式2】は「支配的な社会理論」についての主張である。
だが、【式2】を「寄生虫」についての定義として、「フェミニズム」についての文脈に限定された【式1】に代入した段階で、この二つの式の持つ差異は捨象されることとなる。
『犬桑』さんも、【式3】がトートロジーだと判断している以上、この捨象を当然のことと見なしているわけである。
従って、この論理展開において【式1】と【式2】は同じ内容ということになり、冒頭に挙げた事例同様、この論理展開は「トートロジー」であり、それを根拠として判断された「内田先生のこの言説はトートロジーである」という判断は「誤り」である。
あるいは逆の言い方をするならば、内田先生の言説が無意味・無内容であることを証明するその論理展開に、内田先生の言説が欠くことのできないパーツとして組み込まれているという時点で、その論理展開は矛盾しているということになる。
本来、内田先生が述べられている内容は、上述の式に関係する限りで要約すると、
「支配的な社会理論には、それがどのようなものであれ、必ずそれを教条化し、その理説のほんとうに生成的な要素を破壊する『寄生虫』が付着する。」
「フェミニズムにおいても同様に、そのような『寄生虫』が付着しており、フェミニズムのほんとうに生成的な要素を破壊している。」
という程度のことである。
これらはもちろん、内田先生の「支配的な社会理論」「フェミニズム」に対する認識を表明したものであり、「支配的な社会理論」や「フェミニズム」においてその認識が成り立たないことを確認しさえすれば、十分に反証可能な言説である。
ただ、これも当然のことだが、「支配的な社会理論」や「フェミニズム」に対して十分な知識と理解がなければ、実際に確認するのは極めて大変なことではある。
しかしだからといって、具体的な検証が困難なことと検証が不可能なこととは全く別の問題であることは混同してはならない。
検証「困難」であることと検証「不可能」であることとを取り違えることによって検証抜きにその言説を批判するのは、決して正しいやり方とは言えないだろう。
以下、「トートロジー」についての個人的な覚え書き。
ネット上をあちこち見ていると、常に正しい命題としての「トートロジー」という概念は、いろんな文脈の中で用いられていることがわかる。
ところが、「トートロジー」という概念の体系的解説となると、なかなか手頃なページが見あたらない。
『Wikipedia』の日本語版にあった「同語反復」の項目も削除されているし(もともと大した定義は書いてなかったけれども)。
ひとまず一番まとまっているページとして、『ふき出しのレトリック』というサイトの「トートロジー」の項目を挙げておく。
ここでは基本的にレトリック(修辞)としてのトートロジーを中心に紹介しているが、併せてジャック・デリダの理論に基づくトートロジーの解釈についても言及があり、論理的な意味でのトートロジーを考える上でも示唆に富む内容となっている。
今のところ、特に論理的な意味でのトートロジーを考える時には、その性質によって以下のように区分することができるのではないかと思う。
(1) 公理、公理系、論理学など、「常に正しいこと」として提示される論理、もしくはそれに基づく論理展開。
「公理」とは公理系を構築するに当たっての「前提として常に正しい」命題であり、その命題に基づいて「常に正しい」論理展開を積み重ねて構築された論理体系が「公理系」「論理学」である。
(2) 例えば「ダメなものはダメ」のように、一見無意味な繰り返しに見えるものの、特定のコンテクストに当てはめて「遂行的言明」として解釈することによって新たな意味が発見され、その内容を豊かにしうる論理展開。
「ダメなものはダメ」という言明が特定の文脈において、例えば「(常識的に)ダメ(と判断しうるよう)なものは(実際に)ダメ(なものとして処理されなければならない)」というように実際に解釈されることによって、それ以前の「ダメ」とはほんの少し異なる意味としての「ダメ」が見いだされることとなる。
とすれば、ここに出てくる二つの「ダメ」も、次に改めて「ダメなものはダメ」という言明がなされる時の「ダメ」も、一つとして同じ意味にはならず、従って同じ言葉の無意味な繰り返しとは解釈され得ない。
デリダの書いたものを直接参照したわけではないが、言わんとするところはこのようなことではないかと思うし、内田先生などもこの種のトートロジーに関してはむしろ好んで使う傾向があるように感じられる。
(3) 上の二つと一見似た形式を取りながらも、例えば本エントリの冒頭にあげた例のような、実際にはいかなる知見も発見ももたらさない、全く無内容・無意味の論理展開。
ここに分類される論理展開と、特に(2)で示したような論理展開をどのように弁別するかということが当面の問題となる。
恐らくは、その論理展開自体が遂行的な解釈を捨象してしまう、もしくは拒絶してしまう場合には、必然的にこちらに分類されることになるのだろう。
冒頭の代数の事例で言えば、遂行的な解釈をもたらすべき ( ax + b ) と c との関係性が、 c について代入することによって捨象されてしまっている、と考えることができる。
デリダ的立場に立てば(3)のようなトートロジーは存在し得ないということになるのだろうが、それはあくまでも論理展開そのものから導き出されるものではなく、特定のコンテクストの下でこのような論理展開が提示される意味という、メタな立場からの判断ということになるのではないか。
以上、現時点では深く検討する余裕のない、単なる思いつきなのだけれど、ひとまずは今後のための覚え書きとして、ここに書き留めておく。
]]>
スロー・ネットライフのすすめ
http://hirokira1.exblog.jp/2143473/
2005-11-06T23:00:56+09:00
2005-11-06T23:01:42+09:00
2005-11-06T22:59:49+09:00
hirokira1
社会的考察
学術論文の評価に用いられる「インパクト・ファクター」の話と、ブログにおける話題の扱われ方とが似てるんじゃないかというところから、一過性のブームにテーマの評価、もっと言えばテーマの選び方が左右されてしまうのはまずいんじゃないかと。
で、それによって議論の幅が狭くなってしまう危険性に対して、「スロートラックバック」を提唱することで、もっと長いスパンで書いてみようよ、考えてみようよという趣旨のようである。 流行に左右された研究テーマばかりおこなっていると、国全体としての研究力がおちるというのが師匠の言い分(もしくは、趣味の研究をするための言い訳) だったのですが、ブログも旬のテーマに流されている人が多くなれば、それだけ考える力がおちてしまうような気がしてしまいます。ああ、あまり根拠はないですが、でも、そんな気はしませんか?
この部分については、やや自信なさげに仰っているのだけれど、恐らくその通りで間違いないだろうと思う。
旬のテーマを敏感に読み取り、即座に反応するというスタイルでは、それを評価する時間幅も否応なく狭まってしまう。
評価の時間幅が特定の状況下、特定の雰囲気の中に限定されてしまえば、その中から出てくるテーマ設定や議論の方向も、やはりその時々の状況・雰囲気に強く影響を受けた特定の範囲に偏ってしまうのではないか。
自分が重要だと考えるテーマを探し出す、または探し出したテーマの重要性を明示することそれ自体が「考える力」の根幹をなしていると考えれば、もっと自信をお持ちになってもよいと思うのだけれど。
もちろん、例えば研究者の研究内容を評価するのに10年20年も待つわけにはいかないから、せいぜい数年単位の論文引用数を評価の基準に採用するのも仕方が無いのかも知れない。
ただ、評価というものは何を対象にするかによって、適切な時間幅が異なるわけで、大学の教育者/研究者ならば学期単位の授業評価や数年単位の論文引用数とともに10年単位の研究業績評価もうまく組み合わせて、目先の評価にこだわらない大学人としての立場を保障しないとまずいのではないかとは思う。
まあ、どう組み合わせればうまくいくのかがそれこそ問題なのだが。
ブログの場合も、仕事でやっている人とかアフィリエイトなどにこだわる人とかの場合は、そんな悠長なことは言っていられないのかも知れない。
けれども、単に自分が興味を持っていること、書いてみたいことを書くだけなら、むしろ後からでもアクセスできる・追記できるというネットの特性をもっと有効に活用してもいいんじゃないだろうか?
というわけで、私も「スロートラックバック」に一票入れさせていただく。
でも、この趣旨からするともう少しトラックバックを打つのが遅い方が良かったかも・・・(苦笑)。
【追記】
そういうわけで、現に滞っているエントリの執筆について、『犬桑』さんから催促のエントリが来ました。
すみません。ほんとうにすみません。
でも、まとまったエントリを書く時間が本当にとれないのですよ。
なので、申し訳ありませんが、「下」についてはもうしばらくお待ちください。
ついでに申し上げておきますが、トートロジーの話については、もちろん指摘することが「できない」わけではありません。
むしろ、非常に簡単にできるというのが正直なところです。
ただ、あまりに簡単にできるだけに、御自身でお気づきになる前にこちらから指摘するのが憚られたというだけなのです。
曲がりなりにも内田先生の言説をトートロジーとして切って捨てるほどの方ですから、この程度の間違いを自ら修正できないはずはないと信じるが故に、あのような書き方をしたまでです。
この件については、「下」とは別に必ずエントリを立てて解説するつもりでおります。
もっとも、それまでにしばらくお待ちいただくことになりそうですから(早くて来週末、でも苦しいかも)、その前に御自身でもう一度、「自説の妥当性」そのものを再検討してみていただけませんか?]]>
「遂行的言明」と「事実認知的言明」~『犬桑』さんのエントリによせて(中)
http://hirokira1.exblog.jp/2060807/
2005-10-25T02:02:00+09:00
2005-10-25T02:08:29+09:00
2005-10-25T02:00:55+09:00
hirokira1
社会的考察
…てなことを言ってる場合じゃない。
思いの外忙しくて、なかなか書く時間がとれないのである。
このシリーズも、週末毎にポンポンポーンと書き上げる予定だったのだが…世の中、ままならないものだと改めて思う(←といいつつ「世の中」に責任転嫁)。
とは言いながら、私ごときより間違いなく忙しいに違いない人たちが数日と置かずにブログ更新しているのを見ると、つくづく修行が足りないなぁと反省するのだけれど。
ともかく、忘れてしまわないうちに書いておかなければ。 さて、前々回のエントリに対しては、早速その日の内に『犬桑』さんからのレスTBをいただいた。
あの、ちょっと早すぎません?
いや、こっちが遅すぎるだけか…。
いくつかポイントはあるのだが、内田先生の言説を何が何でもトートロジーにしようとする点はお変わりないらしい。
この点についてはこれ以上議論しても得るところがなさそうなのでひとまず打ち止めにしておくが、トートロジーを証明しようとするその説明がトートロジーになってしまう危険性というのは存外馬鹿にできないものだなとは思う。
ただ一点だけ、頼藤先生のエッセイとそれに対する内田先生の所感についての読みは『犬桑』さんと私とで随分落差があるようなので、補足しておきたい。
『犬桑』さんは頼藤先生が、さらには内田先生が批判する対象を「フェミニストにすりよる男たち」「大学の男性教員でフェミニズムにすりよっているヤツ」「お二人以外の「大学の男性教員」」(最後のは文脈から見て、恐らく「神戸女学院大学の」という限定付き)というように、相当に限定して考察されているようだが、これはさすがに無理筋というべきだろう。
そもそも、頼藤先生のエッセイに「大学の男性教員」という限定は一切出てこない。
頼藤先生の真意については内田先生の引用部分だけでは断言できないので留保するが、少なくとも内田先生が批判する対象は前回太字で挙げたように、
「世渡り上手」にドミナントなイデオロギーによりそってゆく人々のエートス
「勝ち」のイデオロギーに便乗して一稼ぎしようとする貧乏くさい「曲学阿世」の人々
であり、これは内田先生自身の言葉ではっきりと書かれている。
このような「エートス」の有り様を具体的に描き出すために、フェミニズムにおける「論客」の分類がなされているのであって、「エートス」の範囲がフェミニズムを語る男性論客や大学の男性教員に限定されるということではない。
少なくとも内田先生は頼藤先生のエッセイをそういう風に読んだわけだ。
『犬桑』さんがどうしてこのような、本来のテキストを矮小化するような読みにこだわるのかは、正直よくわからない。
多分、このような読みの違いが前回の終わりで触れた「差異」に繋がるのではないかと思う。
というオチで早々に切り上げてしまってもよいのだが、折角大仰なタイトルを付けてしまったことだし、もう少し続けてみよう。
----
『犬桑』さんが「内田式論法ネタの後始末(1)」で私のエントリに対して述べているもう一つのポイントとして、以下のようなくだりがある。
イワズモガナでアリキタリとされていること、不可視化されて内面化されていること、を可視化して相対化するのが現代思想です。私はそう認識しているし、一応内田樹先生も著書ではそう書いていたと思います。「現実を少しでもよりよい方向へ動かして云々」の部分はよくわからない点(「よりよい方向」ってどこ?)もありますが、「アリキタリ」と認識されているものをそうではない、と明かすことが「アリキタリ」でない現実の実現、と言えないこともないと考えると、やっぱりこれも現代思想で普通にやってることです。フーコーでもデリダでもドゥルーズでもカルスタな人々でも皆これはやってると思います。というかコレしかやってないと思います。
この段落の前半部分については私も同意するし、後半部分についてもそうであれば何も言うことはない。
もともと「「アリキタリ」でない現実を実現させるために汗を流して欲しい」という一文は、『犬桑』さんが挙げられたような人たちというよりは、そういう人たちの言説を拠り所にして現代思想を語る人たちに向けて書いたものである。
現代思想を「創る」人たちと「使う」人たちを区別することにどれほどの意味があるのかは不明だが、少なくとも上記のような文章を書いた時に念頭に置いていたのは、主に「使う」人たちのことであった。
だが、例えば「ソーカル事件」のような事例を考えると、私の懸念は「創る」人たちの側にとってもそれほど的はずれではないのではないかと思えてくる。
ソーカル事件の概要については上記Wikipediaの「ソーカル事件」の項目へのリンクの他、「ソーカル事件」でネット検索すれば多くの情報が得られる。
内田先生もウェブ日記で言及しているので、事件の概略についてはそちらからの引用で示しておく(ちょっと長いけど)。
とほほの日々-2000年7月・7月3日の項より
メル・ギブソンの『陰謀のセオリー』をTVで見ながら、買ってきた『知の欺瞞』を読む。
・・・(中略)・・・
ポストモダニストの悪口をここまで徹底的に書いた本はない。(『ポストモダニストは二度ベルを鳴らす』というのも毒の強い本だったけれど、それとも比較にならない)
ソファで涙をながして大笑い。
いーなー、これ。
原題はFashionable Nonsense、そのままでよかったのに、と私は思う。
著者はアラン・ソーカル、ジャン・ブリクモンのふたり、ご専門は数理物理学、量子力学など、私にはまったく理解できない世界のひとである。
そのソーカルが、1996年に、アメリカの人文社会科学の論文に(ほとんど無意味に)数学用語を使う例が多いのにうんざりして、アメリカのカルチュラル・スタディーズ誌 Social Text に「著名なフランスやアメリカの知識人たちが書いた、物理学や数学についての、ばかばかしいが残念ながら本物の引用を詰め込んだパロディー論文」を送りつけたのがことのはじまりである。
『境界を侵犯すること-量子重力の変形解釈学へ向けて』と題する「ばかげた文章とあからさまに意味をなさない表現があふれるばかりに詰め込まれた」論文を『ソーシャル・テクスト』はなんと受理し、掲載してしまった。
ひどい話だ。
もちろんソーカルがではない。
これまでポストモダンの知識人たちが自説を開陳するなかで使ってきた数学、物理学にかかわるまったく無意味な記述を「あらゆる科学は歴史的生成物にすぎず、仮想的な観測者は徹底的に脱中心化されなくてはならない」というポストモダンの常套句にコラージュしただけのおふざけ論文をそのまま掲載してしまった『ソーシャル・テクスト』のレフェリーたちの頭の悪さが、である。
このパロディにソーカルがコラージュした文章は、ドゥルーズ、デリダ、ガタリ、イリガライ、ラカン、ラトゥール、リオタール、セール、ヴィリリオから引用されたものである。
ここで、ソーカルが論証しようとしたのは、ポストモダンの思想家たちは論証において、しばしば数学や物理学の用語や数式を使う傾向にあるが、専門家から見ると、どう見てもその利用法は適切とは思えない、ということである。
理由は二つある。
一つは、それによって読者は何の利益も得ない、ということである。
もちろん数式を導入することによって、人文科学、社会科学のある理論が「分かり易く」なるのであれば、いくらでも導入すればよろしい。
しかし、例えばクリステヴァの詩的言語論やラカンの精神分析理論を読む読者の大半は、数学や物理学の専門家ではないし、専門的な教育も受けていない。
したがって、集中的な専門教育を受けないと基礎的理解にさえ届かないはずの位相幾何学や集合論や微分幾何の用語を説明に使ったおかげで読者の理解が飛躍的に進む、ということはほとんどありえない。
読者の理解を助けるためでなければ、彼らはなぜ数学用語を用いるのであろうか?
第二に、専門家から見ると、彼らは(ましな場合には)数学の入門教科書程度の知識を有しているが、(ほとんどの場合)自分たちが利用している概念をまったく理解していない。
自分が十分に理解できていない専門用語を彼らはなぜ用いるのであろうか?
謎は深まるばかりである。
このような知的態度は「科学を知らない読者を感服させ、さらには威圧しようとしているとしか考えられない」というソーカルの推理は十分に検討するに値する。
・・・(後略)・・・
ここであらかじめ断っておくと、私はソーカルの『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用 』をまだ読んでいない。
かなり前に必読書リストに入れた記憶はあるのだが、すっかり忘れてた(ので、備忘録代わりにここに書いておこう)。
とはいえ、現状では当分の間きちんと読めそうにはないのである(涙)。
従って、現時点ではソーカル事件及び『「知」の欺瞞』に関連して書かれたネット上のいくつかのテキストのみを参考にしてこの文章を書いていることを念頭に置いて読んでいただきたい。
あちこちで書かれている内容を総合すると、この『「知」の欺瞞』という本のポイントは(1)ポストモダン思想における「自然科学用語の出鱈目な使い方に対する具体的な批判」、および(2)「認識論における認識的相対主義」への批判らしい(カッコ内はいずれもWikipediaからの引用)。
このうち、(2)については異論も多く、ソーカル等の試みは必ずしも成功していないように思われるが、(1)に対しては今もって有効な反論は出ていないらしい。
むろん、そのことから直ちにポストモダン思想を否定するのは早計というものである。
ただ、このように自らも十分に使いこなせない数学や科学の知識があちこちのポストモダン思想の言説に持ち出されてきた経緯を見ると、「創る」人たちの側においてさえ、「アリキタリでない言説」への誘惑はかくも強いものであることを再認識せざるを得ない。
もっとも、自らも十分に使いこなせていない数学や科学の知識、いや理解できていない以上単なる“権威”でしかないのだけれど、そんなものを持ち出して「アリキタリでない言説」を演出しようとするそのやり方は、悲しいくらいに「アリキタリ」である。
この『「知」の欺瞞』に対して、山形浩生氏は「ポストモダンに病んで/夢は枯れ野をかけめぐる。」という書評を書いているが、その最後はこのように締めくくられている。
でもそれならぼくがぜひとも読んでみたいのは、こうしたこけおどしの濫用科学用語やレトリックをすべて取り除いて翻訳した、各種「ポストモダン」思想家どもの文章だ。いったいそこには何が残っているのだろうか。あの葉っぱの散り落ちた枯れ野には、実は本当に美しい花がひっそりと咲いていたのかもしれない。できることならぼくはそれが見たい。でも、かなりの確率で不毛の荒野に出会うだけのような気がして、まだこわくて見ていない。
山形氏らしい毒気たっぷりの文面だが、「こけおどしの濫用科学用語やレトリックをすべて取り除い」たポストモダンの文章を「ぜひとも読んでみたい」というのは全く同感である。
「アリキタリでない」ことそれ自体を追い求めるよりも、「アリキタリ」な現実と格闘して欲しいというのは、つまりはそういう意味である。
一方で、この「ソーカル事件」の経緯をあちこちでつまみ食いしながら感じたことなのだが、そもそも現代思想の読み方自体が科学論文の読み方とは随分違うのかも知れない。
内田先生は先に引用した部分の後で、
しかし、実を言って私はあまり困らなかった。私はむかしから数式がでるところは、どんな種類の本でも、全部飛ばして読むことにしているからである。
と仰っている。
ここまで開けっぴろげに数学的無知を披露することはないにせよ、他の現代思想研究者も多かれ少なかれ同様の読み方をしていたのではなかろうか?
それで、わかるところ、よくわからないけれどその説明を受け入れることによって何らかの発見が導かれる(ように感じられる)ところだけを選択的に読み込んで、「これは面白い」「凄い」という評価になってしまったのではなかろうか?
で、そうでないところ、訳の分からないところは取りあえずスルーするというのが暗黙の了解になっていたのに、その暗黙の了解を共有しないソーカルたちに「濫用」を批判されて仰天し、あわてふためいてしまったのではなかろうか?
誰もがスルーしてしまうような内容をちりばめたテキストが何十年もまかり通ってきたのはどうしてなのか?
その理由を考えると、テキストを構成する個々のパーツが指し示す「具体的な対象」や「真偽」よりも、テキストを全体として読んでみての「読後感」の方がより重視されてきたからなんじゃないかという気がしてくる。
でないとすれば、ソーカル等が指摘した数学・科学の知識の「濫用」が、ポストモダン思想の内部で修正・撤回されなかったという事実が全くもって理解できない。
如何に「位相幾何学や集合論や微分幾何」が難解だとしても、本気になって勉強すれば、思想家に理解できないということはないだろう。
思想のテキストにそれらの知識が頻繁に出てくるのに誰もそれをしなかったのは、それらが指し示す「具体的な対象」や「真偽」を思想家たちが重視しなかったからに違いない。
だとすれば、現代思想の担い手たちが採用したテキストの読み方は、むしろOver40さんが「内田樹の読み方2:「キッチリ」と「ゆるゆる」どっちが楽しい」で書いているような、
私なんか、結局は「なんとなく」「楽しいから」「おもしれー」とか言うだけ、それしか言えないです。
というような読み方に近いと思えるのだけれど。
こうやってダラダラと書き連ねているうちに、「遂行的言明」と「事実認知的言明」の違いの一端が何となく見えてきたような気がするが、結論については予定通り次回送りということにしておく。
ちゃんとまとめられるかどうか、ちと不安(苦笑)。]]>
くねくね科学探検日記~鹿野司氏との邂逅
http://hirokira1.exblog.jp/1963853/
2005-10-10T23:47:00+09:00
2005-10-10T23:48:47+09:00
2005-10-10T23:46:59+09:00
hirokira1
ブックマーク的考察
あれやこれやと仕事が降り注ぎ、気がつけば交通整理すらままならない状況。
とりあえず、急遽決まった出張の準備をしなければ。
そういうわけで、まとまった文章は恐らく早くても週末以降にならないと書けそうにない。
書くことは大体決まっているだけにもどかしいのだが。
なので、以下は最近気がついたブログの覚え書き。 『くねくね科学探検日記』~鹿野司氏・wisdom Blog
昔、『Login』で氏が書いていた「オールザット・ウルトラ科学」というコラムの愛読者だった私としては、期待ワクワク、胸ドキドキ。
かつては本屋の軒先で読んでいたライターさんの文章が、今はこうして自宅から好きなだけ読めるとは、いい時代になったものである。
ひとまず、最新エントリの「人はなぜ笑うのか(その2)」を読んでみる。
「お笑い現象がなぜ生じるか」という問題に取り組んだ二人の学者、フロイトとマーヴィン・ミンスキーのお笑いのメカニズム論を紹介したものである。
マーヴィン・ミンスキーという名前はこれを読んで初めて知ったのだけれど、人工知能研究の第一人者で、その“お笑いのメカニズム”を人工知能に組み込むことを考えているらしい。
ミンスキーの“お笑いのメカニズム”とは、端的に言うと「思いがけないフレームの置き換え」ということのようだ。
「フレーム」とは、私たちが世界の様々な事象を認識する際に用いる「予断の枠組み」のことである。
例えば、大柄で禿頭、ひげをはやしたおっさんを見ると、きっと低い声で無愛想な受け答えをするだろうと、大抵の人は思う。
そういう風に見かけだけでその人の行動様式を推定するのも、「フレーム」の一種である。
ところが、そのおっさんが女性以上に甲高い声で「クロちゃんです!」なんていうもんだから、見ている方はついつい笑ってしまう。
「思いがけないフレームの置き換え」とは、多分そういうことなのだろうと思う。
にしても、そんなメカニズムを人工知能が実装する時代が来たら…。
M-1グランプリのようなところで、人工知能の漫才コンビが人間の漫才コンビと勝負して、勝っちゃったりするんだろうか?
で、観客の方も人工知能の方が「笑いのセンスがいい」なんてことになるんだろうか?
まあ、後者の方は考えすぎかも知れないが、将棋の世界などでは近い将来には現実になるだろう事態だけに、十分あり得そうな気がする。
思えば、鹿野氏が「オールザット・ウルトラ科学」を書いていた頃の『Login』は単なるゲーム雑誌ではなくて、コンピュータを中心にした総合科学誌っぽい雰囲気を漂わせていたような記憶がある(あくまで「雰囲気」だけど)。
そのころのパソコンなんて大した性能があるわけでもなく(8ビット主流の時代だし)、むしろ「いつかこんなことができたらいいなぁ」という期待感を精一杯膨らませて楽しんでいたような気がする。
当時家内制手工業のような体制でゲームを作っていたソフトハウスの大半は姿を消し、彼らが作っていたゲームと同等以上のクオリティのゲームがフリーソフトとしてネット上で簡単に入手できるようになった。
けれども、「きっとこんな楽しい未来がやってくるんじゃないか」というワクワク感に限れば、当時の方がずっと大きかったように思えてならない。
その意味では、「オールザット・ウルトラ科学」は私にとっての、楽しい未来へのワクワク感の象徴だったのかも知れない。
あれから15年。
もう一度、あの頃のワクワク感を取り戻してみたくなった。]]>
「遂行的言明」と「事実認知的言明」~『犬桑』さんのエントリによせて(上)
http://hirokira1.exblog.jp/1944845/
2005-10-08T01:58:00+09:00
2005-10-08T02:29:34+09:00
2005-10-08T01:58:24+09:00
hirokira1
社会的考察
『犬桑』(正式名称:そんなnewsは犬も喰わない)さんとの方向性の違いも大体見えてきたようだし、こちらももうこの話題は食傷気味なのだが、今回で一区切りということでもう一度だけ書いてみようと思う。
ただし、きっと長々と書き連ねることになりそうなので、2つのエントリに分けて書くことにしたい。
なお、トラックバックをいただいてから今の今までレスポンスが遅れたのは特に他意があるわけではなく、単に帰国後やたらと忙しかったり病気になったりして書く余裕がなかっただけであることを、予め釈明しておく。 まず、『犬桑』さんのエントリ「内田式論法ネタの後始末(1)」の中で、私の前回のエントリに向けて書かれた部分について、それぞれお答えしておきたい。
どこが凄いのか?と尋ねて「論理展開だ」というような答えだったので「面白くない」「HATI だ」と書いたまでです。そして、もうちょっと付け加えると「HATI だ」というよりは「HATIT だ」となります。「非常にアリキタリで通俗的でイワズモガナで(おまけに言及している対象とは関係が薄い)(T)トンチンカンな内容だ」ってことです。「フェミニズム盛衰史」のような「『アリキタリ』ではない現実」に対してHATI な「『アリキタリ』の言説」を持ち出してきて、何かを説明できたように振る舞っていることがトンチンカンだってことです。
この部分を読むと、内田先生の当該エントリに対する『犬桑』さんの評価が前回までよりもずっと明確に出されてきたように思う。
「アリキタリ」という評価にはもともとトンチンカン、というか現実に対して十分に適合していないじゃないかという不満のニュアンスが含まれている。
前回の私のエントリでは敢えてこのニュアンスを排除してこの言葉を使ったのだが、それに対して『犬桑』さんは「トンチンカン」という言葉を補うことによって、「アリキタリ」に込めた意図をより明確に打ち出したというわけだ。
少なくとも、当該エントリが「アリキタリ」かどうかを議論するよりは、「トンチンカン」か否かを議論する方がずっと有意義だろう。
hirokira1氏が例に出している「曲学阿世」を辞書でひくと「曲学をもって権力者や世俗におもねり人気を得ようとすること」とあります。「曲学」は「真理をまげた不正の学問」とあります。「曲学阿世の徒は学問の敵である」という「アリキタリの言説」を「曲学阿世の徒がはびこっている」ような「アリキタリの現実」(というより「アリキタリの現実認識」ですね)に対して持ち出すのは問題が無いように見えます。
でも「曲学阿世の徒は学問の敵である」は「何が曲学なのか」「誰が曲学阿世の徒なのか」について明らかにしなければ何の意味もない言説です。フェミニズムの本質とやらをねじ曲げた曲学阿世の徒って誰ですか?そこを明らかにしなければ何も言ったことにはならんでしょう。違いますか?「曲学阿世の徒っていやだよねーっ☆」「ねーっ☆」といって合意した両者それぞれが想定している「曲学阿世の徒」が別人だってことも有り得ますよ。そんなことに何の意味があるんですか?
「フェミニズムの発展を阻害しているのは曲学阿世の徒だ!」という言説そのものの真偽は問えません。「フェミニズムの邪魔をしているのは邪魔者だ」と言っているのと同じです。それはまさしくその通り。何についてもこのように言うことはできるでしょう。でも何の意味もない言説です。トートロジーですよ。
何が曲学であるとか、誰が曲学阿世の徒だということに言及していなけれは、何の意味もないんですよ。わかりませんか。真偽は「何が曲学か」「誰が曲学者であるかどうか」ってところでしか問えないんですよ。それに言及しない内田先生の言説は単なるHATI です。HATIT です。
ここではかなりの字数を使って、「フェミニズムの発展を阻害しているのは曲学阿世の徒だ!」という言説が「何の意味もない言説」「トートロジー」であるということが力説されている。
確かに「フェミニズムの邪魔をしているのは邪魔者だ」という命題は「トートロジー」であり、「何の意味もない」同語反復に過ぎない。
だが、それと「フェミニズムの発展を阻害しているのは曲学阿世の徒だ!」という命題とは同一のものではない。
言い換えるならば、「曲学阿世の徒」イコール「学問の敵」イコール「邪魔者」というのは無理がある。
「曲学阿世」とは、そのまま読み下せば「学を曲げ、世に阿(おもね)る」ということになる。
その意味するところは、「学問(もしくは真理)を自分の都合のいいようにねじ曲げて利用し、世の中の潮流に媚びへつらってそれによる利得をせしめる」というくらいだろうか。
とすれば、「曲学阿世の徒」とは本来「学問の敵」などという大層なものではなく、世間に認められた学問の権威性に群がって都合よく利用し、そのおこぼれに預かろうとするさもしい連中のことを指すのだろう。
それこそ、内田先生が言うところの「コバンザメ」「タイコモチ」「寄生虫」という表現がぴったりの連中である。
しかし、一般に「コバンザメ」も「タイコモチ」も「主」の持つ何らかの力や機能に依存しているだけで、その限りでは「主」の敵ではない。
「寄生虫」は場合によっては宿主に害をなすが、うまく共生している場合も多く、本来的な「敵」とは言い難い。
状況によって彼らが「主」に仇なすことがあるからといって、すなわち「主」の「敵」である、「邪魔者」であるとして、それ以外のファクターを全て捨象してしまうのでは、「コバンザメ」や「タイコモチ」や「寄生虫」が可哀想である。
詰まるところ、『犬桑』さんの以上の論理からだけでは、「フェミニズムの発展を阻害しているのは曲学阿世の徒だ!」という命題が「トートロジー」「何の意味もない言説」であるとは言えない。
この命題が「フェミニズムの邪魔をしているのは邪魔者だ」という命題と同じだと解釈することは、「曲学阿世の徒」という言葉が持つ「邪魔者」以外のあらゆる属性を無視して切り捨てるということである。
もともとの命題が持つ様々な内容を削ぎ落として「トートロジー」な命題をつくったからと言って、もとの命題も「トートロジー」であると言えるだろうか?
このような論理展開を目の当たりにすると、『犬桑』さんが繰り返し述べている「無内容」「何の意味もない」という評価も、実は「内容」や「意味」を片っ端から切り捨ててしまっているだけではないかという疑念を禁じ得ない。
ついでに書いておくと、私が書いた「曲学阿世」という言葉、実は内田先生自身が以前に使っている表現である。
『夜霧よ今夜もクロコダイル』2001年4月の日記・4月18日の項より
新学期早々に配られた女性学インスティチュートのニューズレターに頼藤先生が短いエッセイを書いていた。
「われらの内なるセクシズム」と題されたその文章の中で、頼藤先生はフェミニストにすりよる男たちを「曲学阿世」というずいぶんと大時代的な形容詞で罵倒していた。
ということで、もともとは頼藤先生という方の表現らしいのだが。
その頼藤先生のエッセイについては内田先生のサイトで読んでもらうことにして、それに続く内田先生の文章を以下に引用しておく。
頼藤先生の諧謔にはきびしい批評性がにじんでいる。
それは敗戦の直後に、それまでの軍国主義の旗振りから一夜にして宗旨替えして、「民主主義」の旗振りになった「世渡り上手」な知識人たちに太宰治や大岡昇平や小林秀雄が向けた批評の視線に似ている。
ことの深刻さはずいぶん違うけれど、「世渡り上手」にドミナントなイデオロギーによりそってゆく人々のエートスは変わらない。
功利的な動機からフェミニズムによりそい、「セクシスト」退治のキャンペーンにぞとぞろつきしたがっている人々は、スターリン主義の時代に隣人を密告し、文化大革命のときに隣人に「三角帽子」をかぶせて唾をはきかけ、軍国主義の時代に隣人を「非国民」と罵った人々とエートスにおいて同類である。
私や頼藤先生が嫌悪しているのは、フェミニズムではない。「勝ち」のイデオロギーに便乗して一稼ぎしようとする貧乏くさい「曲学阿世」の人々である。
その心根の卑しさは彼らがフェミニズムが衰退する日にどれほど素晴らしい逃げ足でフェミニズムを棄てるか、どれほど憎々しげにフェミニズムを罵倒するか、それを見ればあきらかになるだろう。(その日はじきに来る。)
そして、私はそのときにこそ「フェミニズム断固支持」の旗をかざすことになるだろう。(以下、省略)
一読すればわかるように、件の「哀愁のポスト・フェミニズム」というエントリは、4年前に書かれたこの文章の「続き」として読むことができる(他にもこのエントリに「続く」文章があるかも知れないが)。
ここでは「コバンザメ」「タイコモチ」「寄生虫」に相当する連中を指す表現として、
「世渡り上手」にドミナントなイデオロギーによりそってゆく人々のエートス
「勝ち」のイデオロギーに便乗して一稼ぎしようとする貧乏くさい「曲学阿世」の人々
という言い回しが使われている。
『犬桑』さんの「それって別にフェミニズムに限った話じゃないんじゃないの?」という指摘は、ここで書かれている内田先生の感想そのものと言える。
その限りにおいては、『犬桑』さんの読み方は極めて的を射たものである。
ただ、そのことに気づいた後、それをどのように展開するかという点では、内田先生と『犬桑』さんとでは全く逆の方向へ行ってしまったように見える。
その方向性の違いが、結局は内田先生の当該エントリに対する評価の違い、『犬桑』さんと私やOver40さんやその他内田先生の話を面白がる人たちとの差異に繋がっているように思えてならない。
…というわけで、どうやら次回で終わりそうにないので、この後2回に分けて残りの部分を書くということにしたいと思う。
長くなって申し訳ない。]]>
アリキタリの現実、アリキタリでない言説
http://hirokira1.exblog.jp/1849249/
2005-09-24T13:52:00+09:00
2005-10-08T02:03:51+09:00
2005-09-24T13:57:57+09:00
hirokira1
社会的考察
前回の文面では十分に書けなかった部分も含めて、いろいろと考え直す機会をいただけたことにまずは感謝したい。
その上で前回の補足を含めて、改めて内田先生の「哀愁のポスト・フェミニズム」に込められたメッセージについて書いてみようと思う。 まずトラックバックをいただいた『犬桑』の「内田式論法」の中で、内田先生の文章に対する違和感が述べられている箇所を、少し長いが引用してみよう。
ただ、敢えて言葉を選ばずに強い言い方をすれば、内田先生が提供している「骨組み」は非常にアリキタリで通俗的でイワズモガナだ...と私には見えます。
今回の「権威性を笠に着るだけの言動と、その本質とを混同するな」という「骨組み」はもっと単純に言えば「タイコモチって嫌だよね」と言っているだけですよね。どんな場にもタイコモチとかコバンザメとか寄生虫とか教条主義者的な人物はいるでしょうし、そういう人々は嫌われるでしょうから、こういう話はどんな人にとっても(←場合によっては他者からはタイコモチだと思われているような人々にさえも)「あ~、そういうのアルアル!」ってことになります。でもそれだけじゃないですか。そんなこと今更もったいぶって語られてもなあ...と思ってしまいます。
こんなのだったらいっそ逆に「諸悪の根源とされるような教条主義者が実はナントカ主義の発展にどれだけプラスの貢献をしているのか君たちは知らんだろう!」とか大見得を切ってアクロバティックな論の組み立てで華麗に「論理展開」していただければ「はう!センセースゴーイ!」って私なんかも思うのですけどね。
っていうか現代思想をやってるような人はそういうことをするのが仕事だと思ってました。私は。
犬桑さんの「非常にアリキタリで通俗的でイワズモガナ」という表現は、内田先生の文章を極めて適切に評価していると思う。
全く、本当にそう思う。
ただ、だからこそ内田先生の書くものが存外多くの人たちに支持され、評価されている、という風に考えることはできないだろうか?
御本人も繰り返し書いているように、内田先生の書いている内容の多くは先生以前に存在した「偉い人」たちの書いたことの引き写し、言い換え、適用例に過ぎない。
その意味では、それら「偉い人」たちについて学んだ人にとっては既に使い古された、改めて聞くまでもない話であり、まさに「非常にアリキタリで通俗的」なのだろう。
さらに言えば、自分が「まとめすぎ」た「骨組み」についても、さらに直截な表現として「曲学阿世」という言葉があるが、この言葉はもともと『史記』に出てくるらしい。
とすればそれもまた、既に2000年以上使い古された「非常にアリキタリで通俗的」なものに違いない。
しかし、それらのことは本当に「イワズモガナ」のことなのだろうか?
とてもそうとは思えない。
何しろ、犬桑さんも認めているように、そんな「非常にアリキタリで通俗的」なことが、相も変わらず現実にはびこっているわけだ。
差し障りがあるので詳しくは述べないが、私自身だって同じような場面に遭遇して嫌な想いをしたり、困ったりしたことは何度もある。
内田先生が紹介したY売新聞の記者にしても、可哀想なくらい「非常にアリキタリで通俗的」な反応をしてしまったたわけだけれど、もしかしたらうっかりそれがそのまま紙面を賑わせることになり、「フェニミズムは終わった」という共通認識の醸成に一役買っていた可能性だってあったわけで。
となれば、この「非常にアリキタリで通俗的」な構図が現実に及ぼす影響力は馬鹿にできない。
こっちにしてみても、そんな「非常にアリキタリで通俗的」な構図には飽き飽きしているのだけれど、それが次から次へと押し寄せるのだからどうにもならない。
私たちは、まさしくそのような「アリキタリ」の現実に生きている。
にもかかわらず、そのような「アリキタリ」の現実に対して、「アリキタリ」の言説を持ち出すと、「イワズモガナ」とか「そんなこと今更もったいぶって語られてもなあ...」と言われてしまう。
全くもって、不思議な話ではある。
ここまで考えて、ふと昔自分が書いた話を思い出した。
「「選挙とメディア」、そして未来」
一年以上前の話で、しかも選挙絡みなのだけれど、本筋(そして末尾のしょうもないチョンボ)はおいといて、この中で星新一氏の「東京に原爆を!」というエッセイの一節を次のように引用している。
未来という言葉も、最初のころは新鮮だったが、だいぶ手あかがついてしまった。企業広告にさんざん使われてしまったせいだ。われわれのあいだでの最近の冗談は「未来はもはや過去のものだ」である。実際、そんな感じがするではないか。
何分出先なので、前後の文脈については記憶に頼るしかないのだが、未来を先取りして語ることが当たり前になったせいで、語られる内容の情報価値や刺激だけが先に“消費”されてしまい、それが現実の生活の中で実現される前に使い古されて捨てられてしまう、というような話だったと思う。
犬桑さんが内田先生の文章に求めている「大見得を切って」「アクロバティックな論の組み立てで」「華麗に「論理展開」して」といったそれぞれの要素は、“語られる内容の情報価値や刺激”を重視した意見のように感じられる。
けれども、「アリキタリ」の現実と向き合っている身としては、「もっと未来を!」と叫ぶよりも、その「アリキタリ」の現実を少しでもマシな方向に動かしうる「アリキタリ」な言説の方により魅力を感じてしまう。
内田先生を面白いと思う人の全てとは言わないが、かなりの方には同意していただける見方だと思うのだが、どうだろうか?
昔フィールズ賞を受賞した森重文氏が、「自分の業績が社会で役立つようになるのは300年後くらい」とかいっていたのを、テレビで見たような記憶がある。
うろ覚えなので、ちょっと違っているかも知れない。
まあ誰か詳しい人が正確なところを教えてくれないとも限らないので、一応書いておくことにする。
数学者なら、そういうのもアリだろうと思う。
でも、「現代」思想をやってるような人がそれではまずいのではなかろうか。
現代思想をやるなら、「イワズモガナ」なんて言わないで、現代の「アリキタリ」の現実と真っ向から向き合って、格闘して欲しいと思う。
で、その「アリキタリ」の現実を少しでもよりよい方向へ動かして、「アリキタリ」でない現実を実現させるために汗を流して欲しいと思う。
そうなれば、「アリキタリ」な言説は今度こそ本当に不要なものになるに違いない。
まだ十分に語り尽くした気がしないのだが、取りあえず以上のようなことを「込み」にして、内田先生は当該エントリを書かれたのではないか?というのが、現時点での私の読み方である。
少なくとも、「「タイコモチって嫌だよね」と言っているだけ」ではないと思うのだけれど、どうだろう?]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/