靖国問題の「問題」を解きほぐすには |
随分と放置状態が続いてしまった。
「そのうち時間が出来たら」更新しようと思いながら、春が過ぎ、夏が過ぎ…。 もう「多忙」でなくなる日はやって来そうにないけれど、このブログに関しては思い付いた時にたまに書く、不定期更新ブログとして細々と続けていこうと思う。 さて、いくつか棚上げのテーマがあるのだが、今回はちょっと気にかかっているエントリについて。 『So-net blog:海の研究者』:「靖国問題の「問題」」 『5号館のつぶやき』「オカルトと議論することの不毛」 経由で読ませていただいたのだが、その中でのMANTAさんの論の進め方について、どうにも気になるところがあるので、改めて考えてみたい。 まず第一点。 昨日の小泉首相の「靖国参拝」が新聞・テレビで大きく取り上げられています。 ここで表明されている「言葉の定義」のあいまいさについては、実感としてよくわかる。 ところがこの後で、今年の小泉首相の靖国参拝について、以下のような見解が示される。 私個人は、政府の見解どおり、今回は小泉首相が私人として一宗教法人を終戦記念日に訪れた、ただそれだけだと考えています。 現に中国・韓国も今回の参拝に対しては過去ほどの過剰な反応を示していません。これは結局中国なども彼が公人ではなく私人として参拝していると認めていることを意味するのではないでしょうか?つまり任期を終えようとする小泉首相個人を批判することが中国などにとってはもうメリットではない、と私は解釈しています。中国なども小泉首相という「私人」を批判することで日本を批判していたわけです。 特に二番目の中国などの反応に対する解釈は、どのような理路に基づいてこのように解釈しているのか、さっぱりわからない。 MANTAさんなりの「言葉の定義」に相当する記述が一切示されないまま、これらの(とりあえずの)結論が提示されてしまったことは、非常に残念な気がする。 「言葉の定義」の曖昧さを批判するエントリである以上、きちんとした「言葉の定義」を踏まえた見解を示して欲しかった。 靖国問題全般となると一エントリで扱うにはあまりに大きな問題過ぎるので、ひとまず「公私」の定義に絞って考えてみよう。 この点に関しては、次のエントリのタイトルが全てを物語っているように思われる。 『Apes! Not Monkeys! はてな別館』 「公約に基づき私人として内閣総理大臣という肩書きつきで実行される心の問題」 内閣総理大臣・小泉純一郎は「公約」に基づいて参拝した。 参拝を支持する人々は、「よくぞ公約を守った」と拍手喝采した。 参拝を支持しない人々は、「公約だからといって正当化できるのか」と批判した。 いずれにおいても、「公約」に基づく行為として首相の靖国参拝を語っている。 言うまでもなく、「公約」は私的な内容を含まないというのが「言葉の定義」である。 以上のことから判断して、「公約」に基づく首相の靖国参拝は「私人として」の行為ではあり得ないと考える。 第二点。 「「言葉の定義」がきちっとできていない」点が問題であるという指摘は納得できるのだが、ではここで挙げられている論点についてきちっとした「言葉の定義」ができるのかどうか? これがまた、やっかいな問題である。 上に挙げた小泉首相の事例では、「公約」という補助線に注目すれば容易に判断できる。 だが、このような補助線が予め引かれていない場合、どのように判断すればよいのか? 例えば、次期首相の最有力候補とされる安倍晋三は、 「首相に就任した場合でも「参拝・不参拝」を公表しない考えを明らかにしている。」とのことである(参照記事)。 この場合、公表されないまま参拝が行われたとして、それは「公式」と「私的」のいずれと判断すべきだろうか? 恐らく、意見の分かれるところなのではないだろうか。 ここで「公私」の別を判断するための補助線として、公共事業にかかわる関係省庁の官僚と関連業者との関係を取り上げてみよう。 例えば、これらの官僚に対して業者から歳暮や中元などが渡された場合、私たちはそれを「不正」と判断する。 それは、これらの物品の授受が官僚の勤務時間内に職務として行われるから、そう判断するというわけではない。 そのような官僚クラスであれば一般人よりは当然裕福であろうから、通常のつきあいとして授受される物品も多少高価なものであるのが自然である。 もしかしたら、その官僚と業者は旧知の仲で、ずっと以前から“当然の人付き合いとして”そのような物品の授受を行っていたかも知れない。 しかし、そのような事情に関わりなく、たとえ勤務時間外の完全にプライベートな時間に行われた行為であっても、私たちは「天下の公僕でありながらけしからん!」と憤ることになるだろう。 万一その官僚が「これはプライベートな問題だからごちゃごちゃ言うな」とでも言おうものなら、「盗人猛々しい!!」とさらに怒りがこみ上げるに違いない。 何故か? そのような行為は、その官僚が国民から委託された「公権力」の不適切な行使と見なされるからである。 その官僚が預かる「公権力」はあくまで国民から委託されたものであるから、適切に、そして公正に行使されなければならない。 一般の庶民であれば通常レベルの私的な行為であっても、「公権力」を託された者が行えば「私的」とは見なされないことがある。 そしてその程度・範囲は、委託された「公権力」の程度・範囲によって決まるのである。 安倍晋三が首相となった場合の靖国参拝を考える際も、その公私の別は彼が委託された「公権力」の程度・範囲が決めることになるだろう。 言うまでもなく、首相=内閣総理大臣は、日本政治の最高責任者である。 彼の言動は逐一報道されることとなり、それらは民主主義に基づく日本国民の(とりあえずの)総意として受け止められることとなる。 たとえ本人が公表しなくとも、首相が靖国参拝を行ったということがて報道され、「事実」として認知されれば、それは首相の持つ「公権力」の大きさから見て、やはり「公権力」の行使と判断するしかないのではなかろうか。 ひとまず、現時点での私の見解は以上だが、この「言葉の定義」を前提として首相の靖国参拝を議論するというのは、実のところかなり難しいのではないかという気がする。 一読してわかるように、私のこの見解によれば、報道された時点で「首相の私的参拝」という解釈はありえない。 MANTAさんのように首相の私人としての参拝を認める立場からすれば、私の「言葉の定義」は厳しすぎるということになるだろう。 一方、私の「言葉の定義」では誰にも知られなければ参拝しようが何しようがかまわないことになるが、それすらも認めない立場の人もいるだろう(もっとも、知り得ないことはそもそも禁止しようがないけれど)。 これらの立場の違いをきちっとそろえて共通の「言葉の定義」を共有しないと議論ができないのであれば、恐らくいつまでも議論は始まらない。 議論において、多くの場合は「言葉の定義」の段階から既に断絶がある。 ならば、「言葉の定義」を共有できるレベルまで一旦戻ってそこから議論を始めるか、あるいは自分の「言葉の定義」に基づいて論を展開して見せ、その定義が現実を論じる上でより有用であることを示すというのが次善の策となろう。 どちらにしても面倒な手続きではある。 でも、その面倒な手続きを踏まない限り、議論は一歩も進まない。 というような話ではなくて、MANTAさんが言いたかったのは、単に論者それぞれの「言葉の定義」が定まっていない、筋が見えないというだけかも知れない。 であればなおのこと、MANTAさんにはMANTAさんなりのきちっとした「言葉の定義」を踏まえた論理的な立論を期待したいと思う。 最後に補足を加えておくと、MANTAさんが指摘した「言葉の定義」の問題は、間違いなく靖国問題の「問題」の核心をついていると思う。 靖国問題は、それを構成する一つ一つの「言葉の定義」を恣意的に操作することによって、これほどに「解決困難な問題」として自己の存在を認めさせることに成功したとも言える。 その「解決困難な問題」を解きほぐすのは簡単ではないけれど、恐らくは一つ一つの「言葉の定義」がどのように生成されてきたかという、歴史的な観点が必要になるはずである。 例えば、「私的参拝」なるものがいつ頃、どのような形で出現したのかを見ていくだけでも、問題の構造はかなりわかりやすくなるだろう。 ご多忙のご様子なのでもちろん急かすつもりはありませんが、期待しております。 |
by hirokira1
| 2006-09-06 00:42
| 社会的考察
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