ジャーナリズムの「評価」 |
一言で言うと、ついてゆけない。
どうして、そこまで熱くなれるのだろうか? 「既視感」という言葉も思い浮かんだのだけれど、例えばWikipediaで「既視感」を見てみると冒頭で 既視感(きしかん、Deja vu)は、一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したように感じること。 デジャヴ、デジャビュ。 などとあるので、ここで使うのはちょっと違う気がする。 むしろ、手を変え品を変え間断なく見せられ続けている構図が、ここでもまた繰り返されているという印象を受ける。 要するに、『湯川鶴章のIT潮流 powered by ココログ』にアップされた泉あいさんとの対談に関するポッドキャスティングのエントリが説明もなしに公開停止され、『ネットは新聞を殺すのかblog』での関連エントリも告知なしに「消えた」ことに対する、一部の人々の反応の話である。 関係エントリが「消えた」ことの不自然さは確かであるし、それに対して説明を求めること自体は自然な成り行きである。 が、ここまで騒ぐほどのことだろうか? 『Bigbang』 「湯川氏と時事通信社は一刻も早い説明を。------泉インタビューの削除に関して」 「湯川氏と時事通信社は一刻も早い説明を(2)------泉インタビューの削除に関して」 ここで書かれていること一つ一つについて言えば、特に間違いはないと思う。 ただ、いくつかの間接情報から「月曜日には何らかの告知があるらしい」というところまでわかった以上、憶測を交えつつ事の重大さを力説する必要はないんじゃないだろうか? 月曜日になれば事は明らかとなる。 そこで公開されるであろう「告知」を待って、それを踏まえて疑問点を指摘していくというのならば、まだ理解できる。 だが、それまではどうやっても憶測・推測・可能性でしかない「事の重大さ」を今の時点であれこれ語ってどうなるのだろうか? 一刻を争う問題として、即時に対応しなければ傷口が広がってしまうとすれば、それは第一に憶測が憶測を生み、当事者が収拾不可能になるほどの大騒ぎになってしまうからだろう。 とすれば、そもそも「事の重大さ」を生み出しているのは誰なのだろうか? なお付け加えておくならば、こと今回の件に関しては、Bigbangさんをはじめ、コメントを加えている各氏も現段階では相当に抑制が効いているように感じられる。 正直なところ、この騒ぎを過剰と見るか、Bigbangさんが率先して騒いでくれたからこそこの程度の騒ぎに収まっていると見るのか、現時点では微妙なところだろう。 私としても、皆さん「そのくらい先刻承知」なのだろうと思いたい。 ただ、もし後者であるとすれば、「あるいはより大騒ぎしていたかも知れない」ネット上の言論のあり方に対する違和感はさらに増大せざるを得ない。 そして、この違和感こそが、冒頭で述べた「手を変え品を変え間断なく見せられ続けている構図」に繋がっているように思われてならないのだ 例えば、一昨年春のイラク人質事件における「自己責任論」。 その後まもなくに起きた、北朝鮮拉致被害者の家族に対するバッシング。 最近の例では、民主党・永田某のメール疑惑に対する一連の騒動とか。 確認しておかなければならないのは、これらの例において、批判する側の持ち出す論理自体は「常に正しい」ということである。 が、その「常に正しい」論理は、どういうわけか誰に対しても「常に適用されるわけではない」。 イラク人質(及びその家族)に対する「自己責任」論は、イラクに自衛隊を派遣した日本政府の「自己責任」論を追求しなかった。 拉致被害者の家族を「礼儀がなってない」と批判する論理は、その家族の訴えを20年以上黙殺してきた「非礼」には適用されなかった。 永田某の「ガセネタ」に対する批判は当人を議員辞職に追い込んだが、日本国民にとってははるかに深刻なこちらの「世紀のガセネタ」(『情報紙「ストレイ・ドッグ」(山岡俊介取材メモ)』より)は、その深刻さにもかかわらず放置されたままで、張本人も任期を全うする見込みである。 事の深刻さ・重要さにおいてはいずれも後者の方がはるかに勝っているにもかかわらず、これらの「常に正しい」論理はその深刻かつ重要な問題の改善に寄与するどころか、むしろ覆い隠す方向に作用している。 もちろん、論理そのものに罪はない。 責められるべきは、その「常に正しい」論理をより矮小で、より瑣末な対象に優先的に適用する人々の価値判断である。 「ジャーナリズムはいかにあるべきか」という問いによって、それぞれの「ジャーナリズム」に対する評価を下すことはもちろん可能である。 しかし少なくとも私にとっては、そのような「ジャーナリズム」論の妥当性や正当性よりも、そんな「ジャーナリズム」論を振りかざすことによって生まれる「ジャーナリズム」が実際に何を生み出すか、何をもたらすか、ということの方がはるかに重要である。 だから、一見して精緻で高い理想を掲げている「ジャーナリズム」が単に重箱の隅をつつくだけの結果に終わってしまうのを見るのは、何ともせつない。 できれば、「杞憂」であってほしいと思う。 |
by hirokira1
| 2006-04-09 09:41
| 社会的考察
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