突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
by hirokira1
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2005年 10月 25日
「遂行的言明」と「事実認知的言明」~『犬桑』さんのエントリによせて(中)
『街場のアメリカ論』、ようやく手に入れました。

…てなことを言ってる場合じゃない。
思いの外忙しくて、なかなか書く時間がとれないのである。
このシリーズも、週末毎にポンポンポーンと書き上げる予定だったのだが…世の中、ままならないものだと改めて思う(←といいつつ「世の中」に責任転嫁)。
とは言いながら、私ごときより間違いなく忙しいに違いない人たちが数日と置かずにブログ更新しているのを見ると、つくづく修行が足りないなぁと反省するのだけれど。

ともかく、忘れてしまわないうちに書いておかなければ。



さて、前々回のエントリに対しては、早速その日の内に『犬桑』さんからのレスTBをいただいた。

あの、ちょっと早すぎません?

いや、こっちが遅すぎるだけか…。

いくつかポイントはあるのだが、内田先生の言説を何が何でもトートロジーにしようとする点はお変わりないらしい。
この点についてはこれ以上議論しても得るところがなさそうなのでひとまず打ち止めにしておくが、トートロジーを証明しようとするその説明がトートロジーになってしまう危険性というのは存外馬鹿にできないものだなとは思う。

ただ一点だけ、頼藤先生のエッセイとそれに対する内田先生の所感についての読みは『犬桑』さんと私とで随分落差があるようなので、補足しておきたい。
『犬桑』さんは頼藤先生が、さらには内田先生が批判する対象を「フェミニストにすりよる男たち」「大学の男性教員でフェミニズムにすりよっているヤツ」「お二人以外の「大学の男性教員」」(最後のは文脈から見て、恐らく「神戸女学院大学の」という限定付き)というように、相当に限定して考察されているようだが、これはさすがに無理筋というべきだろう。
そもそも、頼藤先生のエッセイに「大学の男性教員」という限定は一切出てこない。
頼藤先生の真意については内田先生の引用部分だけでは断言できないので留保するが、少なくとも内田先生が批判する対象は前回太字で挙げたように、

「世渡り上手」にドミナントなイデオロギーによりそってゆく人々のエートス
「勝ち」のイデオロギーに便乗して一稼ぎしようとする貧乏くさい「曲学阿世」の人々


であり、これは内田先生自身の言葉ではっきりと書かれている。
このような「エートス」の有り様を具体的に描き出すために、フェミニズムにおける「論客」の分類がなされているのであって、「エートス」の範囲がフェミニズムを語る男性論客や大学の男性教員に限定されるということではない。
少なくとも内田先生は頼藤先生のエッセイをそういう風に読んだわけだ。

『犬桑』さんがどうしてこのような、本来のテキストを矮小化するような読みにこだわるのかは、正直よくわからない。
多分、このような読みの違いが前回の終わりで触れた「差異」に繋がるのではないかと思う。
というオチで早々に切り上げてしまってもよいのだが、折角大仰なタイトルを付けてしまったことだし、もう少し続けてみよう。

----

『犬桑』さんが「内田式論法ネタの後始末(1)」で私のエントリに対して述べているもう一つのポイントとして、以下のようなくだりがある。

イワズモガナでアリキタリとされていること、不可視化されて内面化されていること、を可視化して相対化するのが現代思想です。私はそう認識しているし、一応内田樹先生も著書ではそう書いていたと思います。「現実を少しでもよりよい方向へ動かして云々」の部分はよくわからない点(「よりよい方向」ってどこ?)もありますが、「アリキタリ」と認識されているものをそうではない、と明かすことが「アリキタリ」でない現実の実現、と言えないこともないと考えると、やっぱりこれも現代思想で普通にやってることです。フーコーでもデリダでもドゥルーズでもカルスタな人々でも皆これはやってると思います。というかコレしかやってないと思います。


この段落の前半部分については私も同意するし、後半部分についてもそうであれば何も言うことはない。
もともと「「アリキタリ」でない現実を実現させるために汗を流して欲しい」という一文は、『犬桑』さんが挙げられたような人たちというよりは、そういう人たちの言説を拠り所にして現代思想を語る人たちに向けて書いたものである。
現代思想を「創る」人たちと「使う」人たちを区別することにどれほどの意味があるのかは不明だが、少なくとも上記のような文章を書いた時に念頭に置いていたのは、主に「使う」人たちのことであった。

だが、例えば「ソーカル事件」のような事例を考えると、私の懸念は「創る」人たちの側にとってもそれほど的はずれではないのではないかと思えてくる。

ソーカル事件の概要については上記Wikipediaの「ソーカル事件」の項目へのリンクの他、「ソーカル事件」でネット検索すれば多くの情報が得られる。
内田先生もウェブ日記で言及しているので、事件の概略についてはそちらからの引用で示しておく(ちょっと長いけど)。

とほほの日々-2000年7月・7月3日の項より
メル・ギブソンの『陰謀のセオリー』をTVで見ながら、買ってきた『知の欺瞞』を読む。

  ・・・(中略)・・・

ポストモダニストの悪口をここまで徹底的に書いた本はない。(『ポストモダニストは二度ベルを鳴らす』というのも毒の強い本だったけれど、それとも比較にならない)

ソファで涙をながして大笑い。

いーなー、これ。

原題はFashionable Nonsense、そのままでよかったのに、と私は思う。

著者はアラン・ソーカル、ジャン・ブリクモンのふたり、ご専門は数理物理学、量子力学など、私にはまったく理解できない世界のひとである。

そのソーカルが、1996年に、アメリカの人文社会科学の論文に(ほとんど無意味に)数学用語を使う例が多いのにうんざりして、アメリカのカルチュラル・スタディーズ誌 Social Text に「著名なフランスやアメリカの知識人たちが書いた、物理学や数学についての、ばかばかしいが残念ながら本物の引用を詰め込んだパロディー論文」を送りつけたのがことのはじまりである。

『境界を侵犯すること-量子重力の変形解釈学へ向けて』と題する「ばかげた文章とあからさまに意味をなさない表現があふれるばかりに詰め込まれた」論文を『ソーシャル・テクスト』はなんと受理し、掲載してしまった。

ひどい話だ。

もちろんソーカルがではない。

これまでポストモダンの知識人たちが自説を開陳するなかで使ってきた数学、物理学にかかわるまったく無意味な記述を「あらゆる科学は歴史的生成物にすぎず、仮想的な観測者は徹底的に脱中心化されなくてはならない」というポストモダンの常套句にコラージュしただけのおふざけ論文をそのまま掲載してしまった『ソーシャル・テクスト』のレフェリーたちの頭の悪さが、である。

このパロディにソーカルがコラージュした文章は、ドゥルーズ、デリダ、ガタリ、イリガライ、ラカン、ラトゥール、リオタール、セール、ヴィリリオから引用されたものである。

ここで、ソーカルが論証しようとしたのは、ポストモダンの思想家たちは論証において、しばしば数学や物理学の用語や数式を使う傾向にあるが、専門家から見ると、どう見てもその利用法は適切とは思えない、ということである。

理由は二つある。

一つは、それによって読者は何の利益も得ない、ということである。

もちろん数式を導入することによって、人文科学、社会科学のある理論が「分かり易く」なるのであれば、いくらでも導入すればよろしい。

しかし、例えばクリステヴァの詩的言語論やラカンの精神分析理論を読む読者の大半は、数学や物理学の専門家ではないし、専門的な教育も受けていない。

したがって、集中的な専門教育を受けないと基礎的理解にさえ届かないはずの位相幾何学や集合論や微分幾何の用語を説明に使ったおかげで読者の理解が飛躍的に進む、ということはほとんどありえない。

読者の理解を助けるためでなければ、彼らはなぜ数学用語を用いるのであろうか?

第二に、専門家から見ると、彼らは(ましな場合には)数学の入門教科書程度の知識を有しているが、(ほとんどの場合)自分たちが利用している概念をまったく理解していない。

自分が十分に理解できていない専門用語を彼らはなぜ用いるのであろうか?

謎は深まるばかりである。

このような知的態度は「科学を知らない読者を感服させ、さらには威圧しようとしているとしか考えられない」というソーカルの推理は十分に検討するに値する。

  ・・・(後略)・・・


ここであらかじめ断っておくと、私はソーカルの『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用 』をまだ読んでいない。
かなり前に必読書リストに入れた記憶はあるのだが、すっかり忘れてた(ので、備忘録代わりにここに書いておこう)。
とはいえ、現状では当分の間きちんと読めそうにはないのである(涙)。
従って、現時点ではソーカル事件及び『「知」の欺瞞』に関連して書かれたネット上のいくつかのテキストのみを参考にしてこの文章を書いていることを念頭に置いて読んでいただきたい。

あちこちで書かれている内容を総合すると、この『「知」の欺瞞』という本のポイントは(1)ポストモダン思想における「自然科学用語の出鱈目な使い方に対する具体的な批判」、および(2)「認識論における認識的相対主義」への批判らしい(カッコ内はいずれもWikipediaからの引用)。
このうち、(2)については異論も多く、ソーカル等の試みは必ずしも成功していないように思われるが、(1)に対しては今もって有効な反論は出ていないらしい。

むろん、そのことから直ちにポストモダン思想を否定するのは早計というものである。
ただ、このように自らも十分に使いこなせない数学や科学の知識があちこちのポストモダン思想の言説に持ち出されてきた経緯を見ると、「創る」人たちの側においてさえ、「アリキタリでない言説」への誘惑はかくも強いものであることを再認識せざるを得ない。
もっとも、自らも十分に使いこなせていない数学や科学の知識、いや理解できていない以上単なる“権威”でしかないのだけれど、そんなものを持ち出して「アリキタリでない言説」を演出しようとするそのやり方は、悲しいくらいに「アリキタリ」である。

この『「知」の欺瞞』に対して、山形浩生氏は「ポストモダンに病んで/夢は枯れ野をかけめぐる。」という書評を書いているが、その最後はこのように締めくくられている。

 でもそれならぼくがぜひとも読んでみたいのは、こうしたこけおどしの濫用科学用語やレトリックをすべて取り除いて翻訳した、各種「ポストモダン」思想家どもの文章だ。いったいそこには何が残っているのだろうか。あの葉っぱの散り落ちた枯れ野には、実は本当に美しい花がひっそりと咲いていたのかもしれない。できることならぼくはそれが見たい。でも、かなりの確率で不毛の荒野に出会うだけのような気がして、まだこわくて見ていない。

山形氏らしい毒気たっぷりの文面だが、「こけおどしの濫用科学用語やレトリックをすべて取り除い」たポストモダンの文章を「ぜひとも読んでみたい」というのは全く同感である。
「アリキタリでない」ことそれ自体を追い求めるよりも、「アリキタリ」な現実と格闘して欲しいというのは、つまりはそういう意味である。


一方で、この「ソーカル事件」の経緯をあちこちでつまみ食いしながら感じたことなのだが、そもそも現代思想の読み方自体が科学論文の読み方とは随分違うのかも知れない。
内田先生は先に引用した部分の後で、
しかし、実を言って私はあまり困らなかった。私はむかしから数式がでるところは、どんな種類の本でも、全部飛ばして読むことにしているからである。

と仰っている。
ここまで開けっぴろげに数学的無知を披露することはないにせよ、他の現代思想研究者も多かれ少なかれ同様の読み方をしていたのではなかろうか?
それで、わかるところ、よくわからないけれどその説明を受け入れることによって何らかの発見が導かれる(ように感じられる)ところだけを選択的に読み込んで、「これは面白い」「凄い」という評価になってしまったのではなかろうか?
で、そうでないところ、訳の分からないところは取りあえずスルーするというのが暗黙の了解になっていたのに、その暗黙の了解を共有しないソーカルたちに「濫用」を批判されて仰天し、あわてふためいてしまったのではなかろうか?

誰もがスルーしてしまうような内容をちりばめたテキストが何十年もまかり通ってきたのはどうしてなのか?
その理由を考えると、テキストを構成する個々のパーツが指し示す「具体的な対象」や「真偽」よりも、テキストを全体として読んでみての「読後感」の方がより重視されてきたからなんじゃないかという気がしてくる。
でないとすれば、ソーカル等が指摘した数学・科学の知識の「濫用」が、ポストモダン思想の内部で修正・撤回されなかったという事実が全くもって理解できない。
如何に「位相幾何学や集合論や微分幾何」が難解だとしても、本気になって勉強すれば、思想家に理解できないということはないだろう。
思想のテキストにそれらの知識が頻繁に出てくるのに誰もそれをしなかったのは、それらが指し示す「具体的な対象」や「真偽」を思想家たちが重視しなかったからに違いない。
だとすれば、現代思想の担い手たちが採用したテキストの読み方は、むしろOver40さんが「内田樹の読み方2:「キッチリ」と「ゆるゆる」どっちが楽しい」で書いているような、
私なんか、結局は「なんとなく」「楽しいから」「おもしれー」とか言うだけ、それしか言えないです。

というような読み方に近いと思えるのだけれど。


こうやってダラダラと書き連ねているうちに、「遂行的言明」と「事実認知的言明」の違いの一端が何となく見えてきたような気がするが、結論については予定通り次回送りということにしておく。
ちゃんとまとめられるかどうか、ちと不安(苦笑)。
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by hirokira1 | 2005-10-25 02:02 | 社会的考察
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