突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
by hirokira1
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2005年 10月 08日
「遂行的言明」と「事実認知的言明」~『犬桑』さんのエントリによせて(上)
内田先生のこのエントリを巡る議論もこれでもう3度目。
『犬桑』(正式名称:そんなnewsは犬も喰わない)さんとの方向性の違いも大体見えてきたようだし、こちらももうこの話題は食傷気味なのだが、今回で一区切りということでもう一度だけ書いてみようと思う。
ただし、きっと長々と書き連ねることになりそうなので、2つのエントリに分けて書くことにしたい。

なお、トラックバックをいただいてから今の今までレスポンスが遅れたのは特に他意があるわけではなく、単に帰国後やたらと忙しかったり病気になったりして書く余裕がなかっただけであることを、予め釈明しておく。



まず、『犬桑』さんのエントリ「内田式論法ネタの後始末(1)」の中で、私の前回のエントリに向けて書かれた部分について、それぞれお答えしておきたい。

どこが凄いのか?と尋ねて「論理展開だ」というような答えだったので「面白くない」「HATI だ」と書いたまでです。そして、もうちょっと付け加えると「HATI だ」というよりは「HATIT だ」となります。「非常にアリキタリで通俗的でイワズモガナで(おまけに言及している対象とは関係が薄い)(T)トンチンカンな内容だ」ってことです。「フェミニズム盛衰史」のような「『アリキタリ』ではない現実」に対してHATI な「『アリキタリ』の言説」を持ち出してきて、何かを説明できたように振る舞っていることがトンチンカンだってことです。

この部分を読むと、内田先生の当該エントリに対する『犬桑』さんの評価が前回までよりもずっと明確に出されてきたように思う。
「アリキタリ」という評価にはもともとトンチンカン、というか現実に対して十分に適合していないじゃないかという不満のニュアンスが含まれている。
前回の私のエントリでは敢えてこのニュアンスを排除してこの言葉を使ったのだが、それに対して『犬桑』さんは「トンチンカン」という言葉を補うことによって、「アリキタリ」に込めた意図をより明確に打ち出したというわけだ。
少なくとも、当該エントリが「アリキタリ」かどうかを議論するよりは、「トンチンカン」か否かを議論する方がずっと有意義だろう。


hirokira1氏が例に出している「曲学阿世」を辞書でひくと「曲学をもって権力者や世俗におもねり人気を得ようとすること」とあります。「曲学」は「真理をまげた不正の学問」とあります。「曲学阿世の徒は学問の敵である」という「アリキタリの言説」を「曲学阿世の徒がはびこっている」ような「アリキタリの現実」(というより「アリキタリの現実認識」ですね)に対して持ち出すのは問題が無いように見えます。

でも「曲学阿世の徒は学問の敵である」は「何が曲学なのか」「誰が曲学阿世の徒なのか」について明らかにしなければ何の意味もない言説です。フェミニズムの本質とやらをねじ曲げた曲学阿世の徒って誰ですか?そこを明らかにしなければ何も言ったことにはならんでしょう。違いますか?「曲学阿世の徒っていやだよねーっ☆」「ねーっ☆」といって合意した両者それぞれが想定している「曲学阿世の徒」が別人だってことも有り得ますよ。そんなことに何の意味があるんですか?

「フェミニズムの発展を阻害しているのは曲学阿世の徒だ!」という言説そのものの真偽は問えません。「フェミニズムの邪魔をしているのは邪魔者だ」と言っているのと同じです。それはまさしくその通り。何についてもこのように言うことはできるでしょう。でも何の意味もない言説です。トートロジーですよ。

何が曲学であるとか、誰が曲学阿世の徒だということに言及していなけれは、何の意味もないんですよ。わかりませんか。真偽は「何が曲学か」「誰が曲学者であるかどうか」ってところでしか問えないんですよ。それに言及しない内田先生の言説は単なるHATI です。HATIT です。

ここではかなりの字数を使って、「フェミニズムの発展を阻害しているのは曲学阿世の徒だ!」という言説が「何の意味もない言説」「トートロジー」であるということが力説されている。

確かに「フェミニズムの邪魔をしているのは邪魔者だ」という命題は「トートロジー」であり、「何の意味もない」同語反復に過ぎない。
だが、それと「フェミニズムの発展を阻害しているのは曲学阿世の徒だ!」という命題とは同一のものではない。
言い換えるならば、「曲学阿世の徒」イコール「学問の敵」イコール「邪魔者」というのは無理がある。

「曲学阿世」とは、そのまま読み下せば「学を曲げ、世に阿(おもね)る」ということになる。
その意味するところは、「学問(もしくは真理)を自分の都合のいいようにねじ曲げて利用し、世の中の潮流に媚びへつらってそれによる利得をせしめる」というくらいだろうか。
とすれば、「曲学阿世の徒」とは本来「学問の敵」などという大層なものではなく、世間に認められた学問の権威性に群がって都合よく利用し、そのおこぼれに預かろうとするさもしい連中のことを指すのだろう。
それこそ、内田先生が言うところの「コバンザメ」「タイコモチ」「寄生虫」という表現がぴったりの連中である。
しかし、一般に「コバンザメ」も「タイコモチ」も「主」の持つ何らかの力や機能に依存しているだけで、その限りでは「主」の敵ではない。
「寄生虫」は場合によっては宿主に害をなすが、うまく共生している場合も多く、本来的な「敵」とは言い難い。
状況によって彼らが「主」に仇なすことがあるからといって、すなわち「主」の「敵」である、「邪魔者」であるとして、それ以外のファクターを全て捨象してしまうのでは、「コバンザメ」や「タイコモチ」や「寄生虫」が可哀想である。

詰まるところ、『犬桑』さんの以上の論理からだけでは、「フェミニズムの発展を阻害しているのは曲学阿世の徒だ!」という命題が「トートロジー」「何の意味もない言説」であるとは言えない。
この命題が「フェミニズムの邪魔をしているのは邪魔者だ」という命題と同じだと解釈することは、「曲学阿世の徒」という言葉が持つ「邪魔者」以外のあらゆる属性を無視して切り捨てるということである。
もともとの命題が持つ様々な内容を削ぎ落として「トートロジー」な命題をつくったからと言って、もとの命題も「トートロジー」であると言えるだろうか?
このような論理展開を目の当たりにすると、『犬桑』さんが繰り返し述べている「無内容」「何の意味もない」という評価も、実は「内容」や「意味」を片っ端から切り捨ててしまっているだけではないかという疑念を禁じ得ない。

ついでに書いておくと、私が書いた「曲学阿世」という言葉、実は内田先生自身が以前に使っている表現である。

『夜霧よ今夜もクロコダイル』2001年4月の日記4月18日の項より
新学期早々に配られた女性学インスティチュートのニューズレターに頼藤先生が短いエッセイを書いていた。

「われらの内なるセクシズム」と題されたその文章の中で、頼藤先生はフェミニストにすりよる男たちを「曲学阿世」というずいぶんと大時代的な形容詞で罵倒していた。

ということで、もともとは頼藤先生という方の表現らしいのだが。
その頼藤先生のエッセイについては内田先生のサイトで読んでもらうことにして、それに続く内田先生の文章を以下に引用しておく。

頼藤先生の諧謔にはきびしい批評性がにじんでいる。

それは敗戦の直後に、それまでの軍国主義の旗振りから一夜にして宗旨替えして、「民主主義」の旗振りになった「世渡り上手」な知識人たちに太宰治や大岡昇平や小林秀雄が向けた批評の視線に似ている。

ことの深刻さはずいぶん違うけれど、「世渡り上手」にドミナントなイデオロギーによりそってゆく人々のエートスは変わらない。

功利的な動機からフェミニズムによりそい、「セクシスト」退治のキャンペーンにぞとぞろつきしたがっている人々は、スターリン主義の時代に隣人を密告し、文化大革命のときに隣人に「三角帽子」をかぶせて唾をはきかけ、軍国主義の時代に隣人を「非国民」と罵った人々とエートスにおいて同類である。

私や頼藤先生が嫌悪しているのは、フェミニズムではない。「勝ち」のイデオロギーに便乗して一稼ぎしようとする貧乏くさい「曲学阿世」の人々である。

その心根の卑しさは彼らがフェミニズムが衰退する日にどれほど素晴らしい逃げ足でフェミニズムを棄てるか、どれほど憎々しげにフェミニズムを罵倒するか、それを見ればあきらかになるだろう。(その日はじきに来る。)

そして、私はそのときにこそ「フェミニズム断固支持」の旗をかざすことになるだろう。(以下、省略)

一読すればわかるように、件の「哀愁のポスト・フェミニズム」というエントリは、4年前に書かれたこの文章の「続き」として読むことができる(他にもこのエントリに「続く」文章があるかも知れないが)。
ここでは「コバンザメ」「タイコモチ」「寄生虫」に相当する連中を指す表現として、
「世渡り上手」にドミナントなイデオロギーによりそってゆく人々のエートス
「勝ち」のイデオロギーに便乗して一稼ぎしようとする貧乏くさい「曲学阿世」の人々
という言い回しが使われている。

『犬桑』さんの「それって別にフェミニズムに限った話じゃないんじゃないの?」という指摘は、ここで書かれている内田先生の感想そのものと言える。
その限りにおいては、『犬桑』さんの読み方は極めて的を射たものである。
ただ、そのことに気づいた後、それをどのように展開するかという点では、内田先生と『犬桑』さんとでは全く逆の方向へ行ってしまったように見える。
その方向性の違いが、結局は内田先生の当該エントリに対する評価の違い、『犬桑』さんと私やOver40さんやその他内田先生の話を面白がる人たちとの差異に繋がっているように思えてならない。

…というわけで、どうやら次回で終わりそうにないので、この後2回に分けて残りの部分を書くということにしたいと思う。
長くなって申し訳ない。
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by hirokira1 | 2005-10-08 01:58 | 社会的考察
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