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突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
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2005年 09月 24日
アリキタリの現実、アリキタリでない言説
前回のエントリに対して、犬桑さんからトラックバックをいただいた。
前回の文面では十分に書けなかった部分も含めて、いろいろと考え直す機会をいただけたことにまずは感謝したい。
その上で前回の補足を含めて、改めて内田先生の「哀愁のポスト・フェミニズム」に込められたメッセージについて書いてみようと思う。

まずトラックバックをいただいた『犬桑』「内田式論法」の中で、内田先生の文章に対する違和感が述べられている箇所を、少し長いが引用してみよう。

ただ、敢えて言葉を選ばずに強い言い方をすれば、内田先生が提供している「骨組み」は非常にアリキタリで通俗的でイワズモガナだ...と私には見えます。

今回の「権威性を笠に着るだけの言動と、その本質とを混同するな」という「骨組み」はもっと単純に言えば「タイコモチって嫌だよね」と言っているだけですよね。どんな場にもタイコモチとかコバンザメとか寄生虫とか教条主義者的な人物はいるでしょうし、そういう人々は嫌われるでしょうから、こういう話はどんな人にとっても(←場合によっては他者からはタイコモチだと思われているような人々にさえも)「あ~、そういうのアルアル!」ってことになります。でもそれだけじゃないですか。そんなこと今更もったいぶって語られてもなあ...と思ってしまいます。

こんなのだったらいっそ逆に「諸悪の根源とされるような教条主義者が実はナントカ主義の発展にどれだけプラスの貢献をしているのか君たちは知らんだろう!」とか大見得を切ってアクロバティックな論の組み立てで華麗に「論理展開」していただければ「はう!センセースゴーイ!」って私なんかも思うのですけどね。

っていうか現代思想をやってるような人はそういうことをするのが仕事だと思ってました。私は。


犬桑さんの「非常にアリキタリで通俗的でイワズモガナ」という表現は、内田先生の文章を極めて適切に評価していると思う。
全く、本当にそう思う。
ただ、だからこそ内田先生の書くものが存外多くの人たちに支持され、評価されている、という風に考えることはできないだろうか?

御本人も繰り返し書いているように、内田先生の書いている内容の多くは先生以前に存在した「偉い人」たちの書いたことの引き写し、言い換え、適用例に過ぎない。
その意味では、それら「偉い人」たちについて学んだ人にとっては既に使い古された、改めて聞くまでもない話であり、まさに「非常にアリキタリで通俗的」なのだろう。

さらに言えば、自分が「まとめすぎ」た「骨組み」についても、さらに直截な表現として「曲学阿世」という言葉があるが、この言葉はもともと『史記』に出てくるらしい。
とすればそれもまた、既に2000年以上使い古された「非常にアリキタリで通俗的」なものに違いない。

しかし、それらのことは本当に「イワズモガナ」のことなのだろうか?
とてもそうとは思えない。

何しろ、犬桑さんも認めているように、そんな「非常にアリキタリで通俗的」なことが、相も変わらず現実にはびこっているわけだ。
差し障りがあるので詳しくは述べないが、私自身だって同じような場面に遭遇して嫌な想いをしたり、困ったりしたことは何度もある。
内田先生が紹介したY売新聞の記者にしても、可哀想なくらい「非常にアリキタリで通俗的」な反応をしてしまったたわけだけれど、もしかしたらうっかりそれがそのまま紙面を賑わせることになり、「フェニミズムは終わった」という共通認識の醸成に一役買っていた可能性だってあったわけで。
となれば、この「非常にアリキタリで通俗的」な構図が現実に及ぼす影響力は馬鹿にできない。
こっちにしてみても、そんな「非常にアリキタリで通俗的」な構図には飽き飽きしているのだけれど、それが次から次へと押し寄せるのだからどうにもならない。
私たちは、まさしくそのような「アリキタリ」の現実に生きている。

にもかかわらず、そのような「アリキタリ」の現実に対して、「アリキタリ」の言説を持ち出すと、「イワズモガナ」とか「そんなこと今更もったいぶって語られてもなあ...」と言われてしまう。
全くもって、不思議な話ではある。


ここまで考えて、ふと昔自分が書いた話を思い出した。
「「選挙とメディア」、そして未来」
一年以上前の話で、しかも選挙絡みなのだけれど、本筋(そして末尾のしょうもないチョンボ)はおいといて、この中で星新一氏「東京に原爆を!」というエッセイの一節を次のように引用している。

未来という言葉も、最初のころは新鮮だったが、だいぶ手あかがついてしまった。企業広告にさんざん使われてしまったせいだ。われわれのあいだでの最近の冗談は「未来はもはや過去のものだ」である。実際、そんな感じがするではないか。


何分出先なので、前後の文脈については記憶に頼るしかないのだが、未来を先取りして語ることが当たり前になったせいで、語られる内容の情報価値や刺激だけが先に“消費”されてしまい、それが現実の生活の中で実現される前に使い古されて捨てられてしまう、というような話だったと思う。

犬桑さんが内田先生の文章に求めている「大見得を切って」「アクロバティックな論の組み立てで」「華麗に「論理展開」して」といったそれぞれの要素は、“語られる内容の情報価値や刺激”を重視した意見のように感じられる。
けれども、「アリキタリ」の現実と向き合っている身としては、「もっと未来を!」と叫ぶよりも、その「アリキタリ」の現実を少しでもマシな方向に動かしうる「アリキタリ」な言説の方により魅力を感じてしまう。
内田先生を面白いと思う人の全てとは言わないが、かなりの方には同意していただける見方だと思うのだが、どうだろうか?

昔フィールズ賞を受賞した森重文氏が、「自分の業績が社会で役立つようになるのは300年後くらい」とかいっていたのを、テレビで見たような記憶がある。
うろ覚えなので、ちょっと違っているかも知れない。
まあ誰か詳しい人が正確なところを教えてくれないとも限らないので、一応書いておくことにする。

数学者なら、そういうのもアリだろうと思う。
でも、「現代」思想をやってるような人がそれではまずいのではなかろうか。

現代思想をやるなら、「イワズモガナ」なんて言わないで、現代の「アリキタリ」の現実と真っ向から向き合って、格闘して欲しいと思う。
で、その「アリキタリ」の現実を少しでもよりよい方向へ動かして、「アリキタリ」でない現実を実現させるために汗を流して欲しいと思う。
そうなれば、「アリキタリ」な言説は今度こそ本当に不要なものになるに違いない。


まだ十分に語り尽くした気がしないのだが、取りあえず以上のようなことを「込み」にして、内田先生は当該エントリを書かれたのではないか?というのが、現時点での私の読み方である。
少なくとも、「「タイコモチって嫌だよね」と言っているだけ」ではないと思うのだけれど、どうだろう?
by hirokira1 | 2005-09-24 13:52 | 社会的考察
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