突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
by hirokira1
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2005年 09月 12日
ゲームは始まったばかりだ
11日の衆議院議員選挙は自民党の地滑り的な圧勝で幕を閉じた。
既にあちこちで「何故このような結果になったのか」についての議論が沸き起こっている。
そりゃ、そうだろう。
当の自民党ですら、全く予想していなかった事態なのだから。

『内田樹の研究室』「きっとこうなると思っていました」というエントリで、内田先生は次のように記している。



宴会中、M日新聞から電話があって、総選挙についてのコメントを求められる。
すでに新聞二社からコメントを求められて、どちらもお断りしているのであるが(「みんな選挙にゆきましょう」くらいしか特に言うべきこともないから)、今回のオッファーは「総選挙結果をふりかえって」というものなのでお引き受けする。
もう終わってしまったことについて後知恵で「私ははじめからこうなると思っていました」と言えばよいのであるから、こんな楽なことはない。
ウチダはどうしてうちの仕事は断ったのによその新聞の仕事は受けるのだとお怒りになる記者さんもおられるかもしれないが、出来事の事前にコメントするのと事後にコメントするのでは、知的負荷というものがまったく違うということをご諒察願いたい。
自慢じゃないけど「きっとこうなると思っていました」というコメントなら私はどのようなトピックについてもでも語ることができる。

出来事が起きてしまったあとに、後付けでその出来事に対する解釈を述べることは「知的負荷」がかからない、と内田先生は仰っている。
結果に対するショックの大きさと相俟って、選挙前に増して様々な解釈が世の中を駆けめぐることは想像に難くない。

それにしても、この結果を受けて「きっとこうなると思っていました」とは、さすがは内田先生である。
もちろん、前もってこの結果を予測していたわけではあるまい。
全く予測していなかったにもかかわらず、したり顔でぬけぬけと「きっとこうなると思っていました」と言ってのけるから、さすがなのである。
むろん、内田先生独特のキャラクターということもあるのだろうが、それだけではないのではないかと邪推してみるのも悪くないと思う。


私が一昨日に書いたエントリ「“気分”と“機能”とのあいだ」で、政治というシステムを支えるのは為政者と民衆との間の「緊張関係」であり、それは「むしろ、より主観的であり、より持続的であり、より心理的なもの」なのではないかと書いた。

為政者と民衆との間には、本来確固とした信任=被信任関係があるわけではない。
民主主義社会の場合、民衆一人一人が抱いている様々な想いは投票という制度の中でそのほとんどが一旦捨象され、単なる数字としての一票に変換される。
その一票が積み重なって、その多寡により議員の当選・落選が決まる。
そしてその議員の勢力関係によって、為政者が選ばれ政策が定まってゆく。

為政者はそのシステム上、「民衆の総意」なるものに支えられて政治を取り仕切ることになっているが、実際には「総意」なるものの実体に触れることも確かめることもできない。
できることと言えば、自身の直接的体験と取り巻きを通じて蒐集した「総意」なるものの断片をかき集めて、そこから「総意」なるものの“想像図”を描くことくらいである。
その“想像図”が現実と一致しているか否かにかかわらず、為政者はその“想像図”をもとにして振る舞うことしかできない。
“想像図”と現実が近ければ相応のフィードバックが得られ、遠ければまず間違いなくコケる。

一票を行使する民衆の側がその一票の影響を「想像」によって補わなければならないのと同じように、為政者の側も自らの拠って立つ「総意」の含意を、また自らの政治活動に対する評価軸を、「想像」によって補うしかない。
その意味では、為政者と民衆との間の「緊張関係」は、お互いの「想像」に働きかける果てしない心理ゲームのようなものだとも言える。

例えばポーカーのようなカードゲームで考えてみると、基本的には持ち札と引き札の優劣によってゲームの勝敗が決まる。
しかし、ポーカーにおいては心理的な「駆け引き」がもたらす影響も馬鹿にならない。
というより、「駆け引き」の要素が無ければポーカーの持つ面白みは一気に淡泊なものになってしまうだろう。

そんな「果てしない心理ゲーム」の一幕として今回の選挙に対するコメントの意義を考えてみると、「こんな結果になるなんて思いもよらなかった」「有権者は何て愚かなんだろう」などというセリフと「きっとこうなると思っていました」というセリフ、どちらが有意義な一手になるかは自ずと明らかである。

さすがは内田先生!


というわけで、いろいろと考えるのは大切かも知れないが、あまりあたふたしたり、落胆したり、不安がったりするのは得策ではないと思う。
取りあえず、物事は極力前向きに考えよう。

これだけ自民党が圧倒的多数を確保したということは、今後小泉首相は「抵抗勢力」という便利な言い訳/演出の小道具を使うことができないということなのだ。
これでまともに「改革」の成果を出すことができなければ、アジテーターとしては超一流だが為政者としては史上最低という烙印を押されることになる。
そこのところわかってるよね、コイズミ君?

67.5%に達したという投票率が今後どう推移するかはわからないが、少なくとも従来型の利益誘導による組織選挙では勝てないという現実は、政治家達を否応なく「緊張関係」の中に取り込んでいくことになると推測する。
その意味では、「ゲームはまだ始まったばかり」に過ぎないとも言えよう。


内田先生が書いた選挙総括の文章は、13日付の毎日新聞に掲載された後、先生のブログに転載されるとの由。
恐らくは、我々の「次の一手」の模範例になることであろう。
今はそれが待ち遠しくて仕方がない。


【9月14日 6:55 追記】

内田先生の文章は早速「勝者の非情・弱者の瀰漫」というエントリに掲載されていた。
早っ。
時間がないので現時点では18あるトラックバック記事に目を通していないのだが、このエントリに対する読み方としては、やはり平川克美氏の「弱者の倫理は二度失効する。」が適切な視角を提供してくれていると感じる。

民意というものは、単に票の多寡のみによって知りうるものではない。
ましてや、議員の当落や党派の勢力比によって知りうるものではない。

一方で「小泉マジック」や「選挙戦略」云々、そのマーケティング的戦略に注目した分析もあちこちでなされているようだが、そのような指摘のほとんどはいくら正しくても、政治というシステムを通じてよりよい社会を追い求めるという意味ではあまり有益ではないように思われる。
その点では、内田先生のように「勝者の非情・弱者の瀰漫」という観点から分析することによって、今後我々が選ぶべき社会像を視野に入れた議論を喚起する、というのは有効な「次の一手」と言えよう。

過去の分析は同時に現状認識に繋がり、そして未来における判断軸を形作る。
たとえ「知的負荷」は軽くとも、決しておろそかにはできない作業である。

詳しい分析はまた日を改めて別エントリにまとめることにしたい。
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by hirokira1 | 2005-09-12 23:59 | 社会的考察
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