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突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
by hirokira1
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2005年 09月 08日
『トリビアの泉』に対するささやかな疑問
最近『トリビアの泉』を見ながら、フラストレーションを溜め込んでいる。

昨日の内容で言えば、「トリビアの種」として紹介されていた、

「お受験教育を受けた子供たちの中で一休さんと同じ方法で橋を渡るのは100人中○○人」

というネタなどを見ていると、特にそうなる。

「お受験教育を受けた子供たち」(恐らくはここが肝心)100人に、「このはしわたるべからず」という立て札のある橋を渡らせて検証するという内容なのだが、挑戦した、いや挑戦させられた子供たちはことごとく失敗してしまう。

子供たち一人一人がめいめい一生懸命悩み苦しんで様々な反応を見せる様を、笑い声を交えながら見物するという趣向は、いくらバラエティ番組と言ってもどうにもなじめないのである。



一休さんのとんち話、原典はどこまで遡ればいいのかわからないが、最近ではアニメの中のエピソードで知ったという人が多いかも知れない。
私の記憶では、将軍様か桔梗屋さんのどちらか(多分桔梗屋さんの方だったと思う)が意地悪で「このはしわたるべからず」と書いた立て札を立てて一休さんを困らせたのに対して、「では“端”を渡らず真ん中を渡りましょう」と切り返したという筋だったと思う。

橋の前の立て札を読んで「はし」を「端」に無理矢理読み替えるというのは、どう考えたって屁理屈以外の何者でもない。
ただ、その立て札自体が正当なものではなく所詮は嫌がらせであるということを当の桔梗屋さん(多分)を含めて皆が判っているから、嫌がらせに屁理屈で切り返す一休さんの対応が「とんち」として成立するし、賞賛されうるわけである。

そう考えると、今回の子供たちにとって、この番組内での検証は随分と過酷な条件だったように思えてならない。
人気のない、長さ100メートルの長い橋。
「なぞなぞ」と書いてはあるものの、誰が立てたかもわからない立て札の文言。
小学校に上がる前の子供にすれば、あまりにも異様な空間に違いない。

私などは小さい頃からずっと“恐がり”な子だったから、こんな場所に一人で放り出されたとしたら、たとえ答えを知っていたとしてもその場に立ちすくんでしまうに違いないと思う。
そもそも、ちゃんと答えを言えなければ正解にならないのなら、100メートルの橋なんて必要ないのだし。
実話ということはないだろうが、話の中の一休さんの方がずっと条件としては恵まれているような気がするのだが。

それに加えて、この手の問題は答えを知らなければなかなか自力で解けるものではない。
子供たちの反応に一々笑い声を上げる大人たち(まあ半分くらいは合成かも知れないが)の内、実際に「自力で」解いた経験を持つ人間なんてまずいないだろう。
仮にいたとしても、せいぜい「ピタゴラスの三平方の定理を、学校で習う前に自力で証明した!」という子供と同じくらい稀だろうと思う。
とすれば、笑っている大人たちの圧倒的大多数は「知っているだけ」であり、知らなければ自力ではどうしようもないにもかかわらず、知らないから(もしくはとっさに出てこないから)悩み苦しんでいるだけの子供たちを見て笑っていることになる。

全く、ひでぇ話だ。


もっとも番組の趣旨としては、むしろ「お受験教育を受けた子供たち」に力点が置かれていて、彼らに対する嫉妬とか反感とか、あるいはもっとニュートラルな興味関心を絡めることの方がより重要なのだろう。
にしても、たかが「人生に全く必要のないムダな知識」のためにしては、ちっとばかし“あざとさ”が過ぎやしないだろうか?

そう言えば、マギー司郎のネタでもVTRの大部分は思いっきり『容疑者室井慎次』のプロモーションだったし、少し前にも「トリビアの種」で『電車男』の宣伝まがいのネタを取り上げていたし、25時間テレビでも「トリビアの温泉」と題して大々的にタイアップしてたらしいし・・・。

もちろん優良コンテンツを局がどう活用しようと勝手なのだけれど、こと『トリビアの泉』に関してはどうにも違和感が拭えないのだ。
「人生に全く必要のないムダ」として提供される知識が、実は徹底的に功利的に厳選された宣伝広告であるとしたら、憤慨する以前にそもそも興ざめである。

テレビのようなメディアにおいて、メジャーであるということと「役に立たない」「ムダ」に徹するということはなかなか両立しがたい命題なのかも知れない。
にしても、そういう違和感、フラストレーションに類する感覚を抱いてしまうのは、私だけなのだろうか?
今の日本社会において、そんな違和感を表明してしまう人間の方が興ざめなのだろうか?

そのことが、無性に気になって仕方がない。
by hirokira1 | 2005-09-08 22:48 | 社会的考察
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