突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
by hirokira1
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2005年 08月 16日
つなげ文化のバトン・リレー
しばらく余裕のない日々が続いていて、こっちの方も随分御無沙汰していたのですが、気がつけばもうお盆ですか・・・もう夏も終わりなのね orz


ところで、突然ですがTBS系でやってた世界陸上の話。

テレビの中継を見てて、どうにも違和感を感じてしまう表現が。
各種目の決勝で優勝者が決まるたびに出てくる、「世界64億の1位」というテロップ。
まあ、世界一ってのを強調したいだけなんでしょうけど・・・ちょっとねぇ。

一応「世界陸上選手権大会」の1位ですから、「世界」の「1位」と形容することそれ自体は、もちろん当然だと思いますよ。
でも、その「世界」に存在する約64億人(なのでしょうね、きっと)の全員にとって、「世界陸上」での1位が本当に意味のあるものなのでしょうか?



例えば、ベースボール(敢えてこう書きますが)の世界選手権でMVPをとった選手をとりあえず「世界一」の選手と呼ぶことは、間違いではないでしょう。
では、彼(もしくは彼女)は「世界64億の1位」になったと言えるでしょうか?

まさか。

実際に選手として参加する人口はもちろんのこと、その競技の勝ち負けに何らかの価値を見いだすような観客の人口まで含めたとしても、ベースボール人口は約64憶人の中では極々わずかな部分を占めるに過ぎません。
「64憶」なんて形容詞をつけても、しらけるだけです。

陸上競技はベースボールよりははるかにメジャーな競技ですが、それでも約64憶人という母集団の中では、やはり過半を占めるにはほど遠いでしょう。
例えば、42.195キロメートルなどという半端な距離を、2時間以上かけて、ただただ1秒でも早く他の選手より先着する、なんてへんてこな種目(敢えてこう書きますが)に、どうしてそんなに一所懸命になれるのか?
その2時間があれば、あるいはその2時間に費やせるカロリーがあれば、今日一日生き延びることのできる命があるじゃないか。
そんな世界に生きる人々にとって、日本では大騒ぎしているマラソンのような種目にどれほどの意味があるのでしょうか?
こういうことばかり書くと興ざめかも知れませんが、「世界」イコール「64憶」という安直な図式を見せられると、ついついそんなことを考えてしまうのですよ。
「64億」というリアルな現実と、「世界陸上バンザイ!」というヴァーチャルな世界観の間のどうしようもないギャップに、どうして違和感を感じないのか?
私が感じている違和感は、そういうもののような気がします。
(そうそう、そういえば世界陸上では車椅子レースとかもあったらしいのですが、その優勝者にも「64億の…」のテロップは出てたのでしょうか?見てた人がいたら、教えてください。)


まあ、そうは言っても、上で述べたような参加層+関心層の合計が(恐らくは)億のオーダーにはなるであろうという意味では、陸上競技って大したもんだなぁ、とは思うわけです。
では、どうしてそんなにたくさんの人たちが陸上競技に価値を見いだすようなことになったのでしょう?
その理由ではないかと思える点を、思いつくままに書いてみますと、

・長い競技の歴史を持っている
・明確な統一ルールがあり、勝ち負けがわかりやすい
・その場での勝ち負けと別に普遍的な記録が出るので、空間を超えて競い合うことができる
・たくさんの選手が頂点を目指して競争している
・テレビや新聞などのマスメディアが大きく取り上げている
・自分たちの(国の)代表が好成績を挙げるとやっぱりうれしい

まだ他にもいろいろあるとは思いますが。

で、こういった状況はもちろんある日突然出現したわけではなくて、100年以上の時間をかけて、先人達が苦労して少しずつ実績を積み重ねた結果、今そうなっているわけなのです。
これまでたくさんの選手がマラソンに挑戦してきた歴史。
苦しみながら勝利した時の喜びと惜しくも届かなかった悔しさの積み重ね。
トップランナーから草の根ジョガーまで、幅広い人々の想い。
大会を運営したり、選手の手助けをしたりする裏方たちの汗。

マラソンの勝者は、単に「勝った」ことによって賞賛を受けるのではありません。
長い時間、様々な人たちが積み重ねてきた汗と想いが、その価値を裏打ちしているのです。
その賞賛は、先人達が築き上げた実績のおかげであり、勝者はその賞賛を分かち合うことによって、次の勝者が受けるであろう賞賛の価値を少しだけ大きくすることになります。
そんな価値増大のサイクルをうまく循環させることによって、マラソンという種目は現在のような地位を得るに至ったのでしょう。


随分と長い前ふりでしたが(なんと以上は前ふり、話の枕だったのですよ!)、つまりは私が前回までに書いた文章のまとめをしようというわけなのです。

前回までの話の中で、創作をすること、あるいは自分の文章を書くことに関連して見られるいくつかの立場について書きました。
自らが「権利」を持つ著作物や創作物のオリジナリティを過剰に主張して、その利用を「囲い込む」ことに汲々とする立場。
逆に自分が作ったり書いたりしたわけでもない他人の著作物や創作物を「剽窃」して、ささやかな利得を掠め取ろうとする立場。
どちらも極端な立場には違いないのですが、ではどちらでもない適正な範囲はどこまでか?というところで不安に思っている人が案外多いようなので、急遽(って間は空きまくりですが)「適切な引用」について書いてみたりもしました。

「適切な引用」は前回も書いたように著作権法上に明記された規定なのですが、もちろんそれは法律に書いてあるから大事、というわけではありません。
「適切な引用」を行うことは、引用される側の著作物に対して敬意を表する適切なやり方であり、引用する側の著作物の創作性をより際だたせる適切なやり方であり、そしてそれらの著作物を読む人がそれぞれから受け継ぐべき内容を明示する適切なやり方であるから大事、なのです。
そしてそのような“適切なやり方”を大切にすることは、“何かを書く”“何かを生み出す”ことの価値をより大きくし、著作行為や創作行為が促進される結果として、社会全体がより豊かなものになっていくから大事、なのです。

このような著作・創作における“適切なやり方”は、例えて言えば果てしなく続くリレーのバトンパスのようなものでしょうか。
あなたが受け取ったバトン~それはあなたの身のまわりにある、ありとあらゆるメッセージを含む存在~は、それが様々な人たちの手を経てあなたの手に手渡された、まさにそのことによって価値を持っています。
あなたはそのバトンを受け取って、次の受け手に手渡すまでにどう走るか、どんな風に手渡すか、そのやり方によってバトンに何かしら新たな価値を付け加えることになるのです。

もしかしたら、あなたはそのメッセージに啓発されて、その啓発を形にした新しいメッセージを発することになるかも知れません。
もしかしたら、あなたはそのメッセージに感動して、「これ、すごいよね」とその感動を周りの人たちと分かち合おうとするかも知れません。
もしかしたら、あなたはそのメッセージに引っかかりを覚えて、その引っかかりがあなたのその後の生き方に影響を与えることになるかも知れません。
もしかしたら、あなたはそのメッセージに反発を覚えて、より適切だと思われる別のメッセージを探し求めることになるかも知れません。

どういう形にせよ、何らかの形で次の受け手(それは特定の誰かとは限りませんが)に向けてバトンパスは行われることになります。
そして、そういう風にバトンパスが続けられること、それ自体が何者にも代え難い、人間としての存在価値なのだろうと思うのです。
もちろん、このバトン・リレーは陸上競技のようにセパレートコースでもなく、一つのバトンを一人の走者が引き継ぐというものでもありません。
最終的なゴールも見えなければ、勝ち負けも容易に判定できないものです。
ただ、そんなバトン・リレーがあちこちで行われていて、そのリレーが折り重なって編み上げられたのが「社会」だとか「文化」だとか呼ばれるものである、というイメージについては、そんなに間違ってはいないのではないかという気がします。

私がこれまでのエントリの中で、「囲い込み」や「剽窃」といった行為を非難してきたのは、我々の社会や文化にとって不可欠なこのバトン・リレーをこれらの行為が妨げることになるからです。
著作権法をもとに考えると、「囲い込み」は著作権を過剰拡大するもので、「剽窃」は著作権を踏みにじるものですから、一見すると全く正反対にも思えます。
ですが、「囲い込み」はバトンを次の受け手に渡させないことになりますし、「剽窃」は偽のバトンをつかませることによってバトン・リレーに参加しようとする人たちを騙すことになるわけです。
人類の歴史における文化のバトン・リレーに対する冒涜という意味では、どちらも同じくらい罪深く、憎むべき行為とは言えないでしょうか?

こうした問題が最近ますます深刻になってきている背景として、インターネットの普及に伴う様々な変化を挙げることができます。
パソコンとインターネットによって、著作物・創作物の複製コストも、デジタルデータの流通コストも限りなくゼロに近づくようになりました。
それは一方では「剽窃」のコストを極小化することになり、また一方では従来複製・流通コストを引き受けることによって利潤を得ていた出版・音楽産業の屋台骨を揺るがす事態を引き起こして、彼らを「囲い込み」に走らせることになっています。
著作権のあり方についてもあちこちで議論がされているようですが、インターネットの効用も踏まえた一応の社会的合意ができあがるまでには、まだしばらく時間がかかるのではないか、というのが私の現時点での印象です。
ただ、著作権そのものがどのように再定義されるとしても、それはあくまでもこの「バトン・リレー」の営みを守り、促進するために存在すべきです。
そういう立場から、これからも著作権絡みの議論には注目していきたいと思いますし、Internet Archiveのような試みには期待していきたいと思いますし、こういう問題について一人でも多くの人に考えてもらいたいと思うわけなのでした。

あ~、長かった(苦笑)。
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by hirokira1 | 2005-08-16 07:03 | Cafesta過去ログ
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