突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
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2005年 02月 25日
「知的肺活量」を鍛えよう
しばらく家を留守にする用事がありまして、慌ただしい日々が続いてます。
ろくに書き込みへのレス・足跡返しも出来ない状態で申し訳ありません。
とはいえ大ネタを振ってしまった手前、一応の決着は付けておく必要があるわけで・・・。

というわけで、前々回(ホントは前回も、なのですがそれだけは何卒ご内密に・・・)までの話の続きです。

まだお読みでない方、あるいは読んだけど長すぎて忘れちゃったよ・・・という方のためにページ内リンクをば。

「公理系、もしくは小宇宙」

「 『バカの壁』と認識のモデル」




前回までで、論理体系の相対性とコミュニケーションにおけるコンテキストの共有の重要性について確認した、ということでよろしいですね。
で、コンテキストを共有するためには、自らの「公理系」すなわち認識体系を広げておかないとうまくいかない、というところまで見てきたわけですが。

前回引用した「会話の木」、あるいは聞き手側に特化したモデルとしての「解釈ツリー」について、江島氏はさらりと次のようにまとめています。
「言ってみれば、人間にとっての知的活動というものは、このようなツリーを自己の内面で作ったり壊したりする歴史的な過程である。」

これ、当たり前だと思っている人にとっては何のことはない、当たり前のことなのですが(そりゃそうだ!)、そうでない人にとっては何のことだか、にわかには理解しがたい一文かも知れません。
直後の段落で多少の説明はありますが、当たり前でない人には不親切な説明という気がするので、そういう人は先にこのことを詳しく解説している第4回の方を一読した方がいいかも知れません。
(参照→http://blog.japan.cnet.com/kenn/archives/001975.html

え?難しすぎる?よけいわかんなくなった?

そうかなぁ・・・。

誰かの話を聞く度に「なるほど、そう言われりゃそうだよなぁ」と納得して、いろんな人に感化されまくっている私にすれば、意識レベルで理解できるごくごく当然のことなのですが・・・。

もっとも、一旦大人になると、ちょくちょく人に感化されて自分のスタンスを変えてしまうというのは、格好悪くてなかなかできないことになってしまうのかも知れませんね。
もう大人なんだから、自分の価値観・スタンスには誇りを持つべきで、そんなにころころと変えていいもんじゃない、とか。
でも現実には、やっぱり人は絶えず自らの価値観を書き換え、スタンスをずらしながら、まわりの影響に左右され、同時にまわりにも少しだけ影響を与えつつ生き続ける生き物なのですね。
そんな事実に直面することができないまま、自己への「固執」と他者への「拒絶」を繰り返すというのは、「大人」というのとは全く違うように思えるのですが・・・。

私自身繰り返し書いていることですが、ネットの普及と共に、自分の狭い視野と価値判断に固執する人たちを頻繁に見かけるようになりました。
そういう人たちの存在自体は、ネットとは直接関係ないのかも知れません。
ただ、何故そうなるのか、何故そういう人たちがたくさんいるのか、そして少なくとも自分がそうならないためにはどうすればいいのか・・・無性に「気になる」のですよ。

それらの問への取りあえずの答えとして私が思い当たるのが、タイトルにも挙げた「知的肺活量」という言葉なのです。

この「知的肺活量」という言葉、どうやら内田センセが作り出した概念みたいです。
詳しくは、内田センセの友人で『東京ファイティングキッズ』の共著者でもある平川克美氏の次の文章をどうぞ。
「悪い兄たちが帰ってきた Tokyo Fighting Kids Return No1」~TFK2より
(参照→http://www.tatsuru.com/tokyo/2/archives/2004/12/31_1354.html

この文章の中の「■知的肺活量とは何か」という一節で、平川氏は「オウムの若者たち」が何故「大量殺人にいたる犯罪者」になったのかという疑問を、何故アメリカはベトナム戦争の泥沼にはまったのか、あるいは何故ドイツはナチス・ファシズムの台頭を許したのかという問いかけの中で一般化しつつ、以下のように述べています。

ウチダくんはこれに対してさすがに、するどい分析をしていましたね。

>それは彼らに知識が足りなかったからでも、知性に欠陥があったからでもないと私は思う。そうではなくて、あるフレームワークが失効してから、次のフレームワークを自力で再構築するまでの「酸欠期」をノンブレス(息継ぎなし)で泳ぎ抜くだけの「知的肺活量」が彼らには不足していたからである。(東京ファイティングキッズ「まえがき」より)

  ・・・(中略)・・・

ぼくの言葉でいうなら、知的肺活量というのは、自分の価値観といったものを測定して、判断してくれる第三者をどれだけ、自分から離れたところに措定できるかということなのだろうと思っています。あるいは、そうした第三者の不在に耐えると言ってもよいかも知れません。
別の言い方をするなら、共同体の中にではなく、外部に判断の規範というものを措けるかどうかということが、大変重要なことだろうと思うのです。しかし、これは共同体の内部にいる人間にとっては、至難のわざといわなければなりません。いや、共同体というものが、まさに判断の源泉そのものであるという性格のものですから、外部に判断の規範を措くということ自体がひとつの論理矛盾であるわけです。

人間は必ずどこかに、判断してくれる人を求めるものです。幼児期の両親から、青年期のスポーツ選手や文学者にいたるまで、具体的な身近な何かに寄りかかりたいと思うわけです。しかし、どこかでそういった判断は、実はだれもしてくれないのだということに気づくことが必要なのだろうと思います。
いつの頃からか、ぼくはそのように思えるようになりました。青年期の疎隔感というのは、そういったもたれかかるものの不在に対する最初の「気づき」なのだろうと思います。そして、それが「単独に耐える」、つまりは肺活量を鍛える端緒なのではないかと思います。


・・・結局、私がうだうだ書いてきたことは、この一節の冗長な解説に過ぎないのではないか、とすら思えてしまいます。

判断の拠り所となるフレームワークの相対性、特異性、一時性に立ち向かい、際限のないスクラップ・アンド・ビルドに耐え続けること。
そのための「知的肺活量」を鍛えている者は必ず向こう岸まで泳ぎ切ることができるけれども、そうでない者はいつまでもこちら側の岸にしがみつき続けることしかできません。
川の流れは日増しに激しく、強くなっていくというのに・・・。

平川氏の言葉を借りれば、内田センセが『先生はえらい』というフレーズで表現しようとしたことは、実は「自分の価値観といったものを測定して、判断してくれる第三者」をできるだけ「自分から離れたところに措定」しよう、ということだったのかも知れません。


というわけで、全3回(読みようによっては4回か?)のシリーズは、つまり『先生はえらい』という本の(第一回目の)読書感想文だったりするわけです。
もっとも、字数は大学の卒業論文並みにありますから、どこかのコンクールに出そうとしても決して受理はされないでしょうけれど(苦笑)。
まあ、暇になったら第二回目をいつか書くことになるかも知れません(←オイオイ(^^;)。

そうそう、最後に大切なことを書いておかないと。
江島氏が全4回シリーズを書き終えた後、「シリーズを振り返って」の中で次のように補足しておられます。
(参照→http://blog.japan.cnet.com/kenn/archives/001980.html

私は大事なことを伝え忘れたようです。

「ロジックは共感のためにある」ということです。裏を返せば「共感の得られないロジックは存在価値がない」あるいは「ロジックの正しさは手段であって目的ではない」ということです。

願わくば、この駄文が誰かの共感と結びつかんことを。
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by hirokira1 | 2005-02-25 09:27 | Cafesta過去ログ
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