突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
by hirokira1
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2005年 02月 19日
『バカの壁』と認識のモデル
前に紹介した内田樹『先生はえらい』、ぼちぼち書評なども出てきているようですが、この本ってつくづく書評に向かない本なのですよね、ホント。

例えば、これとか。
「「教員」は「先生」ではない」~『数学屋のメガネ』より
(参照→http://blog.livedoor.jp/khideaki/archives/13714275.html

このブログ記事の筆者の秀さんとおっしゃる方、「数学屋」の名に違わぬ非常に論理的な思考をされる方のようです。
しかも、文章が丁寧で、とても長い。
こういうのを読んでいると、私の文章ももう少し長くていいんじゃないかと、うっかり思ってしまいそうで怖いです(←自爆ネタ)。





ただね、そういう方が論理的に厳密に内田センセの文章を解釈すればするほど、「つねに誤解の余地があるように構造化されている」という、この本が本来持っている魅力を損なうような気がするのですよ。
もちろん秀さんの解釈は正しいと思うし、何より秀さん本人がものすごく面白がっているのはよくわかるんですけれどね。

そういう意味で、結局この本を直接読んでもらうしかないという点では「ぷち批評」に留めた私の判断は正しかったのかも知れません。
・・・思いっきり「我田引水」的評価ですが(苦笑)。

--------
さて、前回の続き。

前回は思いがけず「ぷち数学史」的な内容になってしまったのですが・・・。
元々は私たちの世界の「言うまでもなく当たり前な」前提(公理)からスタートした数学が、結果としてはその前提が「当たり前」と言うほどでもないこと、そして様々な前提に基づいて様々に存在しうるたくさんの世界(公理系)の一つに過ぎないことを証明してしまった、という話でした。

もちろん、わずかな公理を論理的に展開して、壮大な公理系を築き上げていく数学の世界と、膨大な周囲からの刺激を意識的・無意識的に取捨選択して経験的に築き上げていく人間の認識体系とでは、その中味も随分と異なるのもまた事実。

そういう人間の認識体系を「唯脳論」の立場からばっさりと切って見せたのが『バカの壁』という本なのだろうと思いますが・・・。

実は、上記の『数学屋のメガネ』でも、前回紹介した『at most countable』でも、この本はメッタ切りに切り刻まれています。

その一方で、私自身はこのベストセラーをまだ通読していなかったりして(苦笑)。
嫌なのですよ、ベストセラーだから読もうってのが。

いつか古本屋ででも見つけたら買ってもいいかな、とは思うのですが・・・上の二人に徹底的にダメ出しされた本を定価で買う気力がなくて(一応、立ち読みで第一章だけ読みましたが)。

なので上の二人の批評と立ち読みした感想、そして「バカの壁」という言葉自体の一般的な用法に基づいた一般論でしか語れないのですが・・・。

「バカの壁」というのは、こちらの話を理解しようとしない相手の側にだけあるのではなくって、理解しない相手を切り捨てようとする自分の心の内にもある。

そういう意味では、このベストセラーは話半分で終わっている、ということらしいです。
より突っ込んだ批評については、上の二つはもちろん、あちこちで既に語られていることですから、これ以上は触れますまい。
ここでは養老教授が「バカの壁」という言葉に押し込めた、人間の認識体系についてもう少し突っ込んで確認しておきたいと思います。

本格的に調べ始めるときりがないので、今回はこれだけを参照するということでご勘弁を。
「情報・時間・コミュニケーション、そして意識」(全4回+シリーズ回顧編)~江島健太郎 / Kenn's Clairvoyance、CNET Japan Blogより
(参照→http://blog.japan.cnet.com/kenn/archives/001957.html
 ※参照リンクは第1回の記事

この文章、筆者の江島氏によると「知的好奇心の旺盛な文系の高校生か大学生」が想定する読者層だそうで、内田センセの本とあまり変わらないのですね。
で実際に読んでみると、言わんとする内容も内田センセの本とあまり変わらないことに気づいてビックリ。

ただ素朴な疑問として、これだけの文章を読みこなして面白いと感じることのできる高校生がどれだけいるのか・・・。
そりゃ、高校時代の江島氏なら楽々読みこなせるのでしょうけどねぇ。
取りあえずこれを通読して「ここが面白かった」と言える高校生の方、いらっしゃったらご一報ください。
賞品は出ませんが、思いつくだけの言葉で賞賛して差し上げます。

まあ大学生や社会人なら楽勝(のはず)でしょうから、是非是非お読みくださいませ。

で、その文章構成も内田センセ同様多岐にわたっているので、とてもまとめることなんてできないのですけれど・・・。
人間の認識体系を図示したものが第2回に載せられているので、それを見てもらえれば理解した気にはなれるかも知れません。
そう、「会話の木(Tree of Speech)」というモデル。
(参照→http://blog.japan.cnet.com/kenn/archives/001960.html

会話において話し手と聞き手がやり取りする言葉は、情報量としては極めて限られたものです。
話し手の頭の中にある「伝えたいこと」はそれまでの経験・感情・記憶などが絡み合って形作られていて、その情報量は膨大です。
その膨大な情報を「伝える」ために、話し手は聞き手と共有しているコンテキスト(前後の文脈、あるいは場として共有している前提条件)を手掛かりに"余分な"情報を削ぎ落とし、言葉というわずかな情報に圧縮して聞き手に渡すわけです。
言葉を受け止めた聞き手は、"聞き手が話し手と共有していると思っている"コンテキストを手掛かりに、言葉のわずかな情報を逆方向に展開して、自らの持つ経験・感情・記憶などと結びつけ、"話し手の頭の中にあったと思われる"「伝えたいこと」を復元する・・・これがこのモデルで示される「会話」の正体なのです。

どうしてこんな面倒くさいことをしなければならないのか?
より正確に言うと、どうしてこんな面倒くさいことをしているという風に考えなければならないのか?

この疑問も突き詰めていくといろいろと面白い話になるのですが、そうすると収拾がつかなくなってしまうので、ひとまず同じ第2回から一つだけ例証を引用しておきます。

ハイデルベルク大学生理学研究所のマンフレート・ツィメルマン教授は、医学生向けの教科書の中で「我々が認識する情報は常に、感覚器官から送られてくる環境に関する情報の流れの、極端に微小な一部分に限られている」と自らの理論を締めくくった。ツィメルマンのまとめたデータによれば、視覚からは1,000 万ビット、体性感覚から100万ビット、聴覚と嗅覚から10万ビット、味覚から1,000ビットの情報が毎秒毎秒、私たちの感覚器官に流れ込んできているという。そして、この10メガビットのストリームから意味のない情報を捨て、パターンを探し、抽象化し、意識に届く頃にはこれがせいぜい10ビット~30 ビット程度にまで縮減されるという。驚いたことに、意識の帯域幅はたったこの程度なのである。

人間の脳が体中から受け取る知覚情報は、一秒あたり単純計算で1120万1000ビットですか・・・いや、上の数字は単にオーダーを示しているだけなのだとは思いますが。
ま、無理矢理計算すると、毎秒2HDのフロッピーディスク1枚分のデータが入力されるということで。
参考にもならないかも知れませんが、ここの日記で私が書きためた90本ちょっとの文章の合計が約600キロバイトらしいです。
脳に届けられた知覚情報を全て「意識」で受け止めるということは、例えて言えばここにある日記「全て」に相当する分量の文章を約0.5秒毎に強制的に読まされ続ける、ということになるでしょうか。
・・・まさに地獄の責め苦ですな。
書いた本人が言うのも何ですが(苦笑)。

そう考えると、上の引用部分で「意識の帯域幅」が「せいぜい10ビット~30 ビット程度にまで縮減される」のは生物として生きていく上では必然と言わざるを得ません。
そして、そんな狭い帯域幅を通じてそれよりも遙に膨大な情報量を持つ「伝えたいこと」を伝えようとすれば、"コンテキストを共有している"という前提のもとに情報の圧縮/展開を繰り返すしかない、ということもやはり必然なのです。


養老教授の言う「バカの壁」とは、上記のような解釈において"どうやってもコンテキストを共有できない"状態を表現する言葉であると言えるでしょう。

ただし、"どうやってもコンテキストを共有できない"状態が何故起こるのかを考えると、必ずしも相手が"コンテキストを共有しようとしない"からだけとは言えませんよね。
話し手としての自分自身が"相手と共有できるコンテキストを探り出そうとしない"場合にも同様の状態が起こるわけです。
そして、少なくとも上で紹介した二人が「バカの壁」を批判するのは、この刺激的なキーワードが"相手と共有できるコンテキストを探り出そうとしない"話し手の怠慢を正当化してしまうという点にあるように思います。
そういう観点からすると、養老教授の意図がどうであれ、「バカの壁」は身勝手に誤用されやすい非常に危うい概念であると言わざるを得ません。

以上のことを前回触れた「公理系」という言葉を使って無理矢理言い換えると、恐らくは次のようになるだろうと思います。

自分自身の「公理系」"だけ"にこだわっていると、"伝えたいこと"は決して伝わらない。"伝えたいこと"を伝えるためには、相手の属する「公理系」を認め、ある程度理解した上で、自分の「公理系」を出来るだけ押し広げて、なおかつ相手の「公理系」と重なり合う部分(=コンテキスト)を適切に把握しておかなければならない。

う~む、こんな文章で高校生にもわかってもらえるのだろうか(苦笑)。

あちこちの文章を読んでいる内にどんどん収拾がつかなくなりそうなテーマなのですが、必ず次回でケリをつけます・・・たぶん。
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by hirokira1 | 2005-02-19 02:00 | Cafesta過去ログ
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