突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
by hirokira1
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2004年 09月 06日
学校教育と「教養」
前回・前々回の日記に対しては、随分いろいろなご意見をいただきました。
もともとは1回だけで簡単に、さらりと紹介するつもりだったのですが、こちらの誤解もあって、結果としては何人もの方の具体的な見解を読ませていただくことができました。
正直、すごい人たちに読んでもらってるんだなぁ・・・てなことが確認できて、私としては思わぬ収穫でしたが(^^;

前の2回は白田氏の論におんぶにだっこ、原文の用語を括弧付きでそのまま引用するなど読みにくい部分もありました。
今回は私の個人的な経験を披露することで、白田氏の見解に対する私なりの考え方を示しておきたいと思います。






私が通っていた中学校・高校はいずれも一般の公立ではなくて、それなりの進学校だったせいか、一般校に比べるとかなり独特のカリキュラムが組まれていたように思われます。

例えば中学校に入った時は、最初の一月半、数学の授業では教科書の順序を完全無視して、延々と「集合論」だけを教えられました。
個人的には「算数」から「数学」への変わり目だけに期待していたのですが、全く数字が出てこないまま、身の回りの事象へのたとえ話をちりばめた“論理学”の授業が展開されるというのは、予想外に衝撃的でしたね。
もっともそういった考え方を一通り身につけてしまうと、その後の中学数学が意外に簡単に思えてしまったのが不思議なくらいです。

高校に進学した時は、現代社会の授業で一学期フルに使って「ナチス・ドイツの形成史」を教えられることになりました。
とはいえ、ナチスが如何に非道い行いをしたのかということについてはあまり触れず、ヒトラーの生い立ちや経歴、そして第一次大戦後当時「最も民主的な憲法」と言われたワイマール憲法を戴きながら、どうしてドイツが再びナチスのような政党の台頭を許し、軍国主義の道を邁進するに至ったのか、ヨーロッパを中心とした“世界史”の動向を踏まえつつ解説する、という授業は、やはり非常に印象的なものとして記憶しています。

「集合論」を教えてくれた数学の先生は、カリキュラム通りに授業を進める前に、まず前提としての“論理的思考”を身につけて欲しいと願っていたのだと思います。
一方「ナチス・ドイツの形成史」を教えてくれた社会の先生は、ワイマール期のドイツを教えることによって、同じく平和憲法を持ちながら右傾化を見せつつある現代日本の問題を考える糧にして欲しい、と望んでいたのではないかと推測します。
ワイマール憲法制定からナチスの全権掌握までわずかに15年。
平和憲法を持ち、「戦争はイケナイ」と繰り返すだけでは民主主義は守れないという現実を突きつけられた経験は、詳細な歴史的事実を忘れてしまった今でも強く印象に残っています。

今にして思えば、このお二人の先生は、学校教育の限られた時間の中で、社会の一員として生きていくための「教養」を真剣に教えようとしていたのですね。

もちろん、生徒の学力レベルに余裕があり、最初の数ヶ月を自由に使ってもカリキュラムをきちんとこなして受験対策にも十分対応できる、という進学校ゆえのアドバンテージを考慮する必要があるかも知れません。
「うちの学校じゃ、そんなことをしていてはとても時間が足りない」とおっしゃる現場の先生がいたとしても当然、現実にはそういう先生の方が多いと思われます。
「ゆとり教育」路線によって皮肉にも「ゆとり」を奪われてしまった学校現場の実状からすれば、それもやむを得ないことかも知れません。

しかし、教えられる側の「糧」として心に残るのは、教えられる内容そのものよりもむしろそういった「教養」に根ざした“意味づけ”の方なのではないでしょうか?

教えられる側の生徒などがよく言う言葉に、「学校の勉強なんて社会に出ても何の役にも立たない」というのがありますね。
一見もっともらしい意見ですが、実はそう言う時の「社会」や「役に立つ」ことのイメージは、現実に彼らが直面するであろう社会や有用性に比べれば随分と貧弱であることがほとんどです。
「教養」を身につけることによってお金持ちになれるとも、安定した生活が保障されるとも限りません。
けれども、社会の仕組みや変化を筋道立てて理解し、その意味を把握して適切な対応を取る手段を提供すると言う意味では、決して「役に立たない」ということはないはずです。

一方で、そのような「教養」の裏付けとなる学術や文学・芸術にしても、その世界がそのまま「教養」になるわけではないと考えます。
適切な例かどうか自信がないのですが、冒頭の「集合論」について調べてみると、どうやら現実世界の事象を念頭に置いた「素朴集合論」と純粋に数学的厳密性を追求する「公理的集合論」の二種類があるようです。
私が中学一年生の頃に習ったのは、言うまでもなく「素朴集合論」のはず。
ところが現在の数学界で主流なのは、どうやら「公理的集合論」のようなのです。
では、「公理的集合論」の方が、より「教養」としてふさわしいのでしょうか?
私には十分な判断能力があるとは言えませんが、少々調べてみた限りでは、その答えは恐らく「否」だろうという気がします。

「世界をつくるコミュニケーションの基盤」としての「教養」は、あくまでも「教える側」と「教わる側」、あるいは「ルールをつくる側」と「ルールを受け入れる側」とで「共有」されうるものが絶えず取捨選択されながら形作られていくものだと思うのです。
その意味では、この営みは決して一方的なものではなく、常に「相互作用」であると言えます。
ただし、その際その裏付けをなすものは何でもいいかと言えば断じてそうではないこと、前回の日記で述べた通りです。
そう考えると、このような「基盤」構築のプロセスはむしろオープンであり、「民主的プロセス」とは言えないまでも開かれた性質のものと言えそうです。

現在の日本が非常に危機的なのは、そういった「教養」、「コミュニケーションの基盤」に対する理解が極めて希薄になってしまっているところです。
学校教育においても、「役に立つ」知識以外はどんどん削られてきていますが、その際の価値判断では「教養」の側面は随分と軽視されているように思えます。
大学に至ってはさらに悲惨なもので、「教養」の居場所はどんどん無くなってきています。
さらに大学自体が「経済的合理性」によって評価されるようになれば、ますます大学の担う「教養」の屋台骨はやせ衰えていくのではないかと心配する次第です。

これでは、「なんで勉強せなあかんの?」とだだをこねる子どもの論理に合わせて、これまで築き上げてきた「基盤」を自ら放り出してしまうことになってしまいます。
別に大学だけが「教養」を担うわけではありませんが、こういう時こそ両脚を踏ん張って「教養」の大切さを守ろうとするのが“大人”たるものの務めだと思うのですが・・・。
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by hirokira1 | 2004-09-06 00:14 | Cafesta過去ログ
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