突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
by hirokira1
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2004年 09月 03日
「なんで勉強せなあかんの?」
「コミュニケーションとは、外部からの刺激に対する内省的適応の積み重ねである」

・・・誰か偉い人がこういうことを言ってませんかねぇ?
とりあえず、思いつきで書いてみました(爆)。


前回の日記は急ごしらえで書いたとはいえ、あまりに舌足らずで多くの方の頭を“?マーク”で一杯にしてしまったようです。誠に申し訳なく思ってます。

こういう面白い文章を見つけて興奮冷めやらぬところで、まとまりきらないうちに一気に書いてしまうとこうなってしまう、という典型例になってしまいました・・・トホホ(^^;

最初は「この文章、面白いから読め!」というだけでも十分意味があると思っていたのですが、日記の文を読み返すと私自身に明らかな“誤読”があり、やはり訂正・補足する必要がありますね。
未読の方は、前回の日記「世界をつくるコミュニケーションの基盤」と併せてお読みいただくよう、お願いいたします。






さて、最初に何が“誤読”かということですが、それは恥ずかしながら白田氏の文章の主題であるはずの「文化的・政治的社会基盤」の具体的イメージを取り違えていた、ということです。
それゆえに、「この白田氏の結論に対して、私は判断を決めかねている部分があります」とか、「それはまだ、私自身が「民主的プロセス」に対する幻想をぬぐい去れないからなのかも知れません」などという、ピント外れのコメントを書いてしまったわけです。
この点だけは、どなたかにご指摘いただく前に自分で弁解しておかなければならないでしょう。

以下、順を追って“弁解”します。

白田氏が注目する、現代における「私たちの世界観を構成している」もの(私の解釈では、これは「世界をつくるコミュニケーションの基盤」と言い換え可能なもの)は、具体的には西垣氏のモデルに見られる「コミュニケーションの観察・記述」と「意味ベース」に相当します。

現実の社会において、「コミュニケーションの観察・記述」の役割を担うのはいわゆるマスコミです。一方、「意味ベース」を社会全体に共有させて「維持構築すべき」役割を果たすのは、出版・教育業界とされています。

マスコミは、それぞれの視点から「社会で交換されるコミュニケーション」を観察・記述することによって、社会を構成する「個体の解釈プロセス」を結果として制約し、一定の方向(つまり社会秩序ですね)に整えていく存在と定義されます。

また出版・教育業界は、「社会において共有されている、解釈に関する一般的・定型的な基準」である「意味ベース」を、出版物あるいは「教育」そのものとして社会に提供する存在、ということになります。

これらマスコミと出版・教育業界の活動の前提条件−さらに言えば、「意味ベース」の内容そのもの−に相当するのが、「教養」ということになるわけですね。

この「教養」の中味について、特に現在の社会に求められる「教養」の中味については、白田氏は多くを語っていないように思われます。
もっとも、白田氏の論旨や「合理的人間像」云々の用語からおおよその意味は推測できるのですが・・・。

私なりの解釈を披露しておきますと、この「教養」のうち論理的な部分すなわち学術に裏打ちされた部分は“科学的合理性”ということになるのでないかと考えています。
一方感性的な部分−すなわち文学・芸術などに裏打ちされた部分については、なかなかいい言葉が思いつかないのですが、“自己の感性の具現化・客体化”ということになるでしょうか?
いずれにせよ、本来は直接他者に伝えることの出来ない「自らの思い」「自らの経験」を他者と共有するための様々な方法の体系、その総体を「教養」と呼ぶのだろうと思います。

このような「教養」イコール「世界をつくるコミュニケーションの基盤」は、例えば多数決などに代表されるような「民主的プロセス」によって選択されたり決定されたりするべきものではありません。
例えば、他者による反証可能性を排除する「疑似科学」や「トンデモ本の世界」がいくら多くの人の支持を得たからといって、科学の合理的な体系に取って代わる、などということがあってはならないのです。
東京都の中高一貫校における「つくる会」教科書の採択などはこの典型例だと思われます。たとえ都民の過半数が、さらには日本国民の過半数が「つくる会」を支持したとしても、「つくる会」の教科書を「コミュニケーションの基盤」にすることは到底出来ない相談です(「つくる会」に関する私の見解は、以前の日記をご覧ください)。

白田氏が「マスコミュニケーションと意味ベースを制御して、政治的に機能する文化的・政治的社会基盤を作ることは、民主主義的には行い難いか、行えない。」と言っているのは、つまりはこういうことなのですよね、きっと・・・。
それをちゃんと理解できずに、逡巡してしまった我が身が恥ずかしいです・・・トホホ(^^;;;


実は白田氏の文章の主眼は、「近現代における“望ましい”市民社会を支える前提として、如何に“合理的人間”を育成するか?」という点にあります。
どちらかと言えば、これは社会全体を上から俯瞰する視点からの問題意識ということになるだろうと思います。
しかし、逆に社会の中の一個人として「育成」される視点からこの文章を読み返すと・・・今日のタイトルのように、「なんで勉強せなあかんの?」という問いに対する、極めて本質的な答えになっているように思えるのです。(←てか、なんで関西弁?・爆)

まあ、小理屈をこね回して「なんで勉強せなあかんの?」などと反抗する中高生がいたら、いっそ「これが答えだ!」とこの文章を突きつけるのも手かも知れませんね。

もっとも、この文章はそのままでは「意味ベース」として社会に共有させるには、ちと難解すぎるかも知れません。
「意味ベース」としての出版物にしろ教育にしろ、“学術”そのままではなくて、一般向けにかみ砕いて説明するプロセスが不可欠ですから。
そういう意味でも、この文章を通じて出版・教育業界を“アジっている”白田氏には、是非とも一般向けの本を書いていただきたいと、切に願う次第です。
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by hirokira1 | 2004-09-03 21:48 | Cafesta過去ログ
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