突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
by hirokira1
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2004年 09月 01日
世界をつくるコミュニケーションの基盤
ずーっと不思議に思っていたことが、最近確信に変わってきました。

どうやら、私の書くウェブサイトのレビューは人気がないらしいです。

時たま思い出したように書いている「勝手にリンク先レビュー」シリーズの閲覧数と書き込み数を見てて、気にはなっていたのですが・・・。

あちこちのサイト記事や理屈をこねくり回している日頃の日記より、こういう素直に書いた紹介記事の方により注目して欲しいのに・・・。

なんで?どちてなの??


そういうわけで、今日の日記もレビューです(爆)。






白田秀彰 の 「インターネットの法と慣習」〜HotWired Japan より
「第13回 法と政治の基盤について」

(参照→http://hotwired.goo.ne.jp/bitliteracy/shirata/040831/textonly.html

「法と政治」なんてやたら難しそうですが、読んでみると本当にむちゃくちゃ難しいです(苦笑)。
したがって、私には到底この文章を要約する能力はありません。
ただ、斜め読みでも一応読んだ人間として、理解できる範囲での備忘録を残しておこうかと(いや、本来日記とはそういうもんですね)。

話は、白田氏がアダム・スミスの『道徳感情論』(『国富論』じゃないのね)を読み始めたところから始まります。

で、読み始めた。...つまらん。同書は、人間が相互にコミュニケート不全だという前提からスタートする。

われわれは、他の人々が感じることについて、直接の経験をもたないのだから、彼らがどのような感受作用を受けるかについては、われわれ自身が同様な境遇においてなにを感じるはずであるかを心にえがくよりほかに、観念を形成することができない。... われわれの想像力が写しとるのは、彼のではなくわれわれ自身の、諸感覚の印象だけなのである。(『道徳感情論』 I. i. 1. 2)


だけど、もし自分が相手の立場だったらどのような感情が発生するか、という想像力を基礎にした感受作用があるんだ!ということにして、社会に存在するさまざまな道徳的規範がどのように発生するのか、ということを文庫本で4cmの厚さにわたって延々と書いている。何度も意識を失いながら(つまり寝た)、ようやく読み終わった自分を誉めてあげたい私なんだが、実は後半まあまあ興味深く読めるようになった。


人間は、言葉にせよ表情や身振り・手振りにせよ、「自らの思い」をそういう“記号”に託して相手に投げかけることでしか「コミュニケートする」ことはできません。
その“記号”を受け取った者は、“記号”を「自らの経験」に基づいて解釈し意味づけすることによって、「コミュニケートできた」ものと認識するに過ぎないのです。
どちらの側に立つにしても、「自らの思い」「自らの経験」を“記号”に投影することしかできず、決して相手の“感情”に直接触れることはできません。
人と人との「コミュニケート」とは、そうした投影の積み重ねに基づいた試行錯誤の暫定的評価、と言えるかも知れません。

スミスはそうやって積み重ねられる「コミュニケート」が如何にして社会規範という価値観を生み出してゆくかを論じている、のでしょう、きっと(苦笑)。
白田氏はその中でスミスが所与のものとして想定している判断基準や概念に対して違和感を覚えつつも、当時の歴史的背景の中にその違和感を解消することによってスミスのモデルを普遍化し、現在における西垣通氏の情報伝達モデルと対比することを可能にしています。

両者の違いについて、もう一回引用します。

アダム・スミスのモデルは、孤立した個体が相互に感受しあうための基礎は自然が与えるとした。西垣のモデルは、孤立した個体が相互にコミュニケーション(信号を交換)することで、個体の解釈プロセスが協調するように調整されていくとする。また、社会で交換されるコミュニケーションをある視点の観察者が記述することで、個体の解釈プロセスは、その記述に制約されるようになるという。さらに、この社会の全体的コミュニケーションをある視点から観察し、記述するのがマスコミュニケーションなんだという。また、社会において共有されている、解釈に関する一般的・定型的な基準である「意味ベース」が存在するんだという。このコミュニケーションの観察・記述と意味ベースが私たちの世界観を構成していることになる。

ここで、わかってくる事は、アダム・スミスの時代に「自然」として当然視されていたものは、実は当時の富裕市民層以上の階層が共有していたニュースや学問や教養であって、ものすごく限定的かつ人工的なものだったということ。逆に、アダム・スミス的「自然」に依拠した合理的人間像は、現代においてマスコミと意味ベースで制御されうる現代の人間像とかなりの程度ズレていると考えるのが当然だ。


スミスと西垣氏の違いは、つまるところ両者が念頭に置いた社会の範囲と歴史的環境の違いに還元されるというわけですね。
スミスの時代において、あるいはスミスが議論する範囲においては「自然」として深く分析する必要の無かった「世界をつくるコミュニケーションの基盤」は、200年余りの時を経て、「コミュニケーションの観察・記述」と「意味ベース」という分析概念を必要とする程に拡大し、不安定化したということだと思います。
もちろんその背景としては、「社会」=「世界」の拡大があるのは言うまでもありません。

このような議論を踏まえて、白田氏はそういった「基盤」を支えるべき「マスコミや出版・教育業界」の「社会を構築・維持するというきわめて高度な政治的役割」に期待しようとします。
その際重要なのは、その「役割」は決して民主的なプロセスによって果たしうるものではない、とされている点です。

さて、すでに賢明なる読者の皆様は気がついていると思うけど、マスコミュニケーションと意味ベースを制御して、政治的に機能する文化的・政治的社会基盤を作ることは、民主主義的には行い難いか、行えない。「こっちの方がよさそう」とか「なんでもいいよ、楽しければ」というような感じで選択された基盤が、はたして長期的にみて破綻しない社会を実現してくれるかはなはだ怪しい。これは一大事なんだ。だから、どこかにエリートがいて、どのような文化的・政治的環境を「自然」なものとして設定するかについて慎重に準備することが避けられないんじゃないだろうか。個別具体的な政治的決定については、民主的プロセスで決定することが、おそらくもっとも望ましいんだろうけど、民主的プロセスが動作する基盤は、最高の理性と知性をもって設計し、設定し、維持しなければならないんじゃないだろうか。それが、どのような民主的プロセスが動作するのかに、強く影響するという危険があるわけだけど、なんとも仕方がないんじゃないかと思う。


正直なところ、この白田氏の結論に対して、私は判断を決めかねている部分があります。それはまだ、私自身が「民主的プロセス」に対する幻想をぬぐい去れないからなのかも知れません。

まあ、私のような人間の放言もそういう「意味ベース」構築に多少なりとも影響しているとすれば、「基盤」の安定など望むべくもないのでしょうが(苦笑)。
あっちへふらふら、こっちへふらふらしながら、取りあえずは舞台から落っこちない(=破綻しない)程度にさまよい続ける、ってのは駄目なのかな・・・そういうことを考えてしまうのは、まだ白田氏の論旨を十分に理解していないからなのかも知れません。


どうです?訳わかんないでしょ?(爆)

ここの日記に書き込みしてくださるかたは、大抵私より見識の高い方ばかりのようですので、是非本文の方をご一読の上、ご教示いただくようお願いします。



・・・私のレビュー記事、何で人気がないかようやく分かってきたような気がします(苦笑)。
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by hirokira1 | 2004-09-01 23:30 | Cafesta過去ログ
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