突き詰めても、突き詰めても、つまりは不完全性思考
by hirokira1
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2004年 08月 07日
自己認識と他者認識(下)
気がつけばもうアジア杯は決勝ですか・・・。
時の流れ・・・というか、自分のサボり癖に今更ながら驚いてます(苦笑)。

さて、本題の「自己認識」と「他者認識」について。

世の中には、いろんな人がいるものです。
誰から見ても人当たりがよく、常に冷静沈着で鋭い洞察力を持ち、周りへの配慮も行き届いている・・・そんな人を見ると、ただただうらやましい限りです。
ところが、そんな人に直接話を聞いてみると、
「いやぁ、私はおっちょこちょいだし、独りよがりでつい周りが見えなくなるところがあって・・・」
などと仰ったりして、こちらが驚いてしまうことがあります。

皆さんはそういう経験、ありませんか?


その人にしてみれば、自らの至らない部分を(それが他人にとって取るに足りないものであっても)きちんと自覚して、自らの行動をよりよい方向に導こうと努めているのに過ぎないのです。
一方、そんな人に対して、この人は「おっちょこちょい」なんだ、実は「独りよがり」な人間なんだ、などと考えることはほとんど意味がないでしょう。
むしろ、そのような自分の短所を「冷静」に受け止めて前向きに生かそうとする、極めて「配慮の行き届いた」人と受け止めるのが自然です。

このように、同じ人への評価で考えても、「自己認識」と「他者認識」の間には極めて大きな隔たりがあるものです。

「自己認識」は常に直面している、そして決して逃れることのできない「自己」に対する認識です。
したがって、「自己」について持っている情報は膨大です。
しかしそれでも(もしくはそれだからこそ)「自己」については見えない部分が多く残されています。
だからこそ、より謙虚な姿勢で「自己」についての情報をかき集め、より厳しい態度で「自己認識」を改めていく必要があるのです。
同時に、「自己認識」は「自己」のあり方を改善する上で決定的な役割を果たします。
同じような性格を持っていたとしても、「自己認識」の甘い人と厳しい人とでは、行動や振る舞いはまるで違ってくるはずです。

一方、「他者認識」を語る際には、その相手についての情報を自分がほとんど持っていない、という前提を忘れてはいけません。
誰であれ、その相手との接点は限定されていて、しかもその接点はその相手の全貌の中のほんの一面に過ぎないのです。
ですから、「他者」を判断するときには「自己」に対するのとは別の意味での「謙虚さ」をもって、よりその相手を知ろうと努力する必要があります。
そして、断定的な評価を下すのは極力避けるようにするべきでしょう。
また、「他者認識」と言いながら、それは得てしてそれを持つ当人の「自己認識」が多分に反映されてしまうものです。
「他者」に対して過剰に責任を求めようとする場合、大抵はその当人の「自己認識」に問題があると考えて差し支えないでしょう。
そういう意味では、その人の「他者認識」を見ることによって、ある程度その人の「自己認識」を判断することができるとも言えます。


以上のことを踏まえて考えれば、例えば“反日感情”と“反日教育”を短絡的に結びつける向きの議論は、「自己認識」に対する態度と「他者認識」に対する態度とが倒錯していることに気づくことができると思います。
さらに言えば、過去の日本の戦争に対して「自虐史観」なる言葉を振りかざし、「日本は悪くなかった」と言わんばかりの言動を繰り返す風潮の問題点も見えてくるのではないでしょうか?

現実問題として、このような議論や言動はこれからも存在し続けるでしょう。
民主主義社会として「言論の自由」を標榜し続ける限り、これらの動きを封じ込めるわけにはいきません。
それだけに、これらの議論や言動を受け止める一般大衆がどういう心構えを持ち、どれほどの判断能力を持ち得るかが試されている、と言えるでしょう。

そう言う意味で、サッカーの試合だけでなく、社会としての成熟度でも負けたくはないものだと、切に願う次第です。
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by hirokira1 | 2004-08-07 16:38 | Cafesta過去ログ
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